第58話 家じゅうが、湿っていく
田辺家の門をくぐると、家全体が異様な湿気に包まれていた。 玄関のドアを開けた瞬間、濃密な水の匂いが鼻を突いた。苔と鉄錆。そこに、甘く饐えた——花が腐りかけたような、排水口の底をさらったような臭いが、べったりと混じっている。喉の奥がひりつき、香織は思わず口で呼吸した。
「おかえり」
和子が玄関に立っていた。 その姿が、一瞬、若い頃の姿に見える。十八歳の、亮介と出会った頃の姿に。
「翔太君も一緒ね」
和子の視線が翔太を捉える。その瞳に、複雑な感情が宿る。懐かしさ、悲しみ、そして諦観。
「亮介に、よく似ている」
「僕は...」
「分かっているわ。あなたは亮介じゃない。でも...」
和子が翔太に近づく。その歩みは、水の上を滑るように音もなく。
「あなたも、選ばれたのね」
和子の手が、翔太の頬に触れる。 その瞬間、翔太の意識に、五十年前の記憶が流れ込んできた。薄暗い廃寺の地下。首まで水に浸かった亮介と和子。
『ごめんね、亮介君』
『謝るなよ』
『愛してるから』
その言葉と共に、亮介の体が水に沈んでいった。
翔太が、膝をついた。喉の奥にせり上がる吐き気をこらえる。激しい頭痛とともに、他人の記憶が、自分の中で渦を巻いた。
「翔太君!」
香織が支える。その冷たい手が、今は心地よかった。
「見えた...五十年前が...」
その光景を、和子は、戸口の暗がりから見ていた。
支え合う、若い二人。冷たい手と、温かい手。五十年前の自分と亮介が、そこに重なって見えた。
和子の喉の奥から、声にならない音が漏れた。咳のような、嗚咽のような。皺だらけの手が、無意識に、胸の前できつく握りしめられている。
——香織。逃げて。今すぐ、その子の手を引いて、この家から。
そう叫びたかった。けれど、和子の唇からこぼれたのは、いつもの、凍りついた言葉だけだった。
「……もう、お休みなさい。明日も、長い一日になるわ」
孫を救うための言葉を、和子はもう、五十年も前に、水に取られていた。




