第57話 誰も、信じてくれない
その日の夜、ファミレスからの通報を受け、二人の警察官が田辺家を訪れた。
年配の地元出身の巡査部長と、赴任したての若い巡査。若い巡査はマニュアル通りに香織から事情を聞こうとする。
「本日、ファミレスでの騒動について、いくつかお話を伺いたいのですが」
しかし、玄関先で応対に出た祖母・和子の言葉に、彼の常識は崩壊した。
「ああ、水が少し、はしゃいだだけのこと。若い子は、時々こうして余計な力を持て余すものですから」
和子の声は静かだが、人間離れした静謐な威圧感に、若い巡査は気圧される。
年配の巡査部長は、田辺家にまつわる古い噂を知っており、「関わるな」という町の暗黙のルールを肌で感じていた。彼は若い巡査を制し、「ご迷惑をおかけしました」と早々に引き上げようとする。
帰り道、若い巡査が不安そうに問いかける。
「あれは、一体…?」
巡査部長は、田辺家の屋根を覆う重たい雲を見上げながら、意味深に呟いた。
「あの家は、この町の理屈が通じる場所じゃない。嵐が過ぎるのを待つしかないんだ」
二人だけの世界
ファミレスを飛び出し、当てもなく歩いていると、後ろから声をかけられた。
「香織ちゃん」
振り返ると、翔太が立っていた。 彼の姿も、どこか歪んで見える。輪郭が滲み、時折二重に見える。
「翔太君……」
「大丈夫?……大丈夫なわけ、ないよな」
翔太は、香織の濡れた制服と、絶望に満ちた表情を見て、すべてを察していた。一歩、距離を詰めようとした、その手を——
「来ないで」
香織が、自分でも驚くような硬い声で、それを遮った。
「もう、来ないでよ。翔太君」
細い雨が、降り始めていた。
「全部、試したの」香織は、堰を切ったように吐き出した。「動画も、家出も、火も。データは消えるし、駅は止まるし、火は点かないの。私の名前は、もう、向こう側に書かれてた」
声が震える。
「だから、あなたまで——あなたまで、一緒に取られたくない。お願いだから、私のこと、忘れて。連絡先も、全部、消すから」
スマホを取り出し、震える指で翔太の名前をブロックリストに加えようとした。けれど、画面の上を、何度なぞっても、指が滑った。何かに弾かれるように。あるいは、自分自身が、本当にはそれを望んでいないかのように。
翔太は、ゆっくりと首を振った。そして、自分の手のひらを、香織に見せた。
指の間に、薄い水かきのような膜が、すでに形成されはじめていた。
「無理だよ、忘れるなんて。……もう、遅いんだ」
翔太の声は、震えていなかった。
「君に触れたあの日から、僕の中にも水が流れ込んでくる。怖くはなかった。たぶん、僕はもう、覚悟ができてる」
「だめ……」
「香織ちゃん。ひとつだけ、約束していいかな」
翔太が、こちらへ手を伸ばした。
「君を一人には、しない。何が起きても。それだけは、僕に決めさせてくれ」
香織は、押し出していたはずの手を、自分でも知らないうちに、彼の手のほうへ伸ばしていた。指先が触れた瞬間、二人の手のあいだに、青い光が一瞬、脈打つように灯る。
押しのけたかったのに。離したかったのに。気づけば香織は、その手を、きつく握り返していた。
翔太だけが、自分と同じ世界にいる。彼だけが、自分を化け物として見ない。その事実だけが、香織を繋ぎとめる唯一の錨だった。
「どこへ行こうか」
「……分からない」
「いいよ。分からなくても、一緒に行く」
翔太の手を、握り返した。二人は当てもなく、ただ駅とは反対の方向へ歩き出した。歩いて、歩いて、雨に打たれながら、知らない路地を曲がり続けた。
それでも——気がつけば、二人は田辺家の門の前に立っていた。
どんなに歩いても、どの角を選んでも、最後に辿り着く場所は同じだった。




