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水に取られた ー零れる刻限ー (改訂版)  作者: 大西さん
第八章 逃げ切れなかった母
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第56話 プールが、私を呼んでいる

学校でも、異変は続いた。


朝、香織は廊下の古いトロフィーケースの前で、ふと足を止めた。何百回と通り過ぎてきた場所だった。けれど、その日は、ケースのいちばん奥に並んだ盾——「昭和四十七年 夏季予選 ベスト八」の選手名簿の最後の四文字、「田中亮介」が、ガラスの埃の奥から、香織を呼んでいるような気がした。五十年、誰も拭わないままの名前だった。翔太の苗字と、同じだった。


二限目、古典の教科書を開いた瞬間、指先に冷たさが走った。開いたページの真ん中、一行だけが水に滲んで、紙が皺になっている。誰も水をこぼした覚えはない。閉じて、もう一度開くと、その滲みは、隣のページにも、薄く移っていた。


体育の授業はプールだった。プールサイドに立った瞬間、香織の体は、二つに引き裂かれた。


足は、逃げ出したがっていた。水面を見ただけで、心臓が縮み上がり、膝が震える。あの中に入れば、二度と人間に戻れない。そう本能が叫んで、後ずさりしようとする。怖い。怖くて、たまらない。


なのに、同じ体の奥で、別の自分が、前へ進みたがっていた。塩素の匂いが、なぜか故郷の匂いのように懐かしい。水が、おいで、おいでと、優しく招く。その声に、抗いがたく、惹かれてしまう。早く、あの中へ。早く、満たされたい。


恐れる足と、求める魂。正反対の力が、香織の体の中で激しくせめぎ合った。前へ出ようとして、後ずさり、後ずさろうとして、前へ傾く。その場で、香織は、立ち尽くしたまま、小刻みに揺れていた。


——これだ。


香織は震えながら思った。あの古い本で読んだ、松姫の病。水を恐れながら、狂おしく水を求めた姫。あれは、物語じゃない。いま、私の体の中で、起きていることだ。百五十年前の姫と、私は、同じ引き裂かれを生きている。


プールの水面が、香織を呼んでいた。 おいで、おいで、と。 その声は、水の中から直接響いてくるようだった。無数の声が重なり合い、輪唱のように香織の名を呼ぶ。


『香織…』 『帰ってきて…』 『ここがあなたの本当の場所…』


それは甘美な誘惑だった。家の呪いも、迫りくる儀式の恐怖も、この水に身を委ねればすべてから解放される。楽になれる。水と一つになれる。


一歩、前に出る。 もう一歩。 プールの縁に立つ。つま先が、水面すれすれまで来ている。あと少し体を傾ければ、この心地よい世界に帰れる。


「田辺さん!」


体育教師の甲高い声が、甘い誘惑を切り裂いた。 香織は我に返った。気がつけば、プールに飛び込む寸前だった。クラスメートたちが、恐怖と好奇、そして猜疑の入り混じった目で、遠巻きに香織を見つめている。


「気分が...悪くて」


保健室に向かう途中、香織は自分の足跡を振り返った。濡れた足跡が、乾いた廊下に点々と続いている。しかし、香織はまだプールに入っていなかった。体から滲み出た水が、彼女の歩いた跡を記していた。


その日の放課後、香織の日常は完全に終わりを告げた。 授業中、香織の隣には誰も座ろうとしなかった。休み時間に話しかけても、友人たちは視線を逸らす。携帯に届くメッセージも、いつの間にか途絶えていた。まるで、クラスから存在が消えてしまったかのようだった。


放課後、数少ない友人に誘われ、駅前のファミレスでおしゃべりをしていた時のことだ。


「でね、その先輩がさー」


友人の話は、テストのことや恋愛のこと、香織がもう属することのできない、きらきらとした日常の話だった。香織は相槌を打ちながらも、話の内容は頭に入ってこなかった。テーブルの上の、自分のコップの水が気になって仕方なかったからだ。


水が、生きているように蠢いている。表面が微かに盛り上がり、まるで呼吸しているかのようだった。


「香織、聞いてる?」


「あ、うん、ごめん」


香織が慌ててコップに手を伸ばした、その瞬間だった。


ざああっ!


コップの水が、何の前触れもなく溢れ出した。噴水のように勢いよく噴き上がり、天井にまで達する。それは物理法則を完全に無視した光景だった。


「きゃああああ!」


友人たちが悲鳴を上げて立ち上がる。周囲の客も、何事かとこちらを見ている。溢れ出した水は、香織の足元にだけ集まり、まるで彼女を守るように渦を巻いていた。


「な、なんなのよ、あんた……」


友人だった少女の目に浮かんでいたのは、純粋な恐怖と拒絶だった。化け物を見る目だった。 彼女たちは財布から小銭を乱暴にテーブルに叩きつけると、逃げるように去っていった。


一人残された香織は、水浸しのテーブルの前で、立ち上がることもできなかった。膝が、小刻みに震えている。胃の底から酸っぱいものがこみ上げ、香織は思わず口を手で覆った。遠巻きに自分を見る視線の一つひとつが、皮膚に刺さる。——化け物。その声にならない言葉が、店じゅうに満ちている気がした。


「私はもう、あちらの世界の人間ではない」。


それでも、手放せなかった。教室の笑い声も、放課後の他愛ない約束も。香織はまだ、こちら側に、爪を立てていたかった。


もう、戻れない。 普通の日常には、二度と。

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