第54話 代々の女が、男を沈めた記録
六月十日(日)天気:曇り 【儀式まで、あと十日】
その夜、家族が寝静まったあと、香織は仏間の奥の引き出しを開けた。長年、触れてはならないとされてきた漆塗りの小箱。中には、和紙を綴じた古い帳面が、何冊も詰まっていた。表紙には、墨で『水時計儀式記録』。
代々の田辺家の女が、十八で水に沈めた男の名と、儀式の日付を記したものだった。和子の頁。さらに前の、見知らぬ祖先の頁。
これさえ、燃やしてしまえば。
仏壇の蝋燭の火を、近づけた。炎は、和紙の縁に触れる寸前で——ふっ、と消えた。
台所へ走った。コンロの火を点け、帳面の角を翳した。炎の上で、換気扇から、ぽたん、と水滴が落ちた。火はそれだけで消えた。何度繰り返しても、同じだった。
ライターを擦った。何度擦っても、ヤスリの部分から水が滲み出すばかりで、火花一つ起きない。
香織は、震える指で、最後の頁をめくった。
そこには、もう、書き込まれていた。
『田辺香織 令和四年六月二十日 儀式予定』
自分の名前。儀式の日付。香織が手に取るより前に。最初から決まっていたかのように、墨は乾いていた。
帳面を取り落としたとき、その表紙に、ぽたん、と一滴、誰のものでもない水が落ちた。
——この呪いには、現代の手段では届かない。データは水に取られ、道は水で塞がれ、火は水に消される。私の名前は、ずっと前から、こちらに書かれていた。
仏間の暗がりで、香織は声も立てずに泣いた。涙が乾いて消えるのを、初めて怖いと感じた。
それでも、まだ、抗いたかった。一度でいい、流れに逆らったと、自分に証明したかった。なのに思い浮かぶのは——もうこれ以上、翔太を巻き込みたくないという、それだけだった。




