第52話 送ったはずの、証拠が消える
六月四日(月)天気:曇り 【儀式まで、あと十六日】
その日、香織はスマホを握りしめて、家の中を歩いた。仏間で水瓶の前に跪く祖母の背中。台所で乾いた目のまま米を研ぐ母。自室で何時間もコップの水を飲み続ける姉。——証拠を、残さなければと思った。
動画をいくつも撮った。クラウドに上げ、数少なくなった友人たちにDMで送り、SNSにも鍵付きで投稿した。「もし私に何かあったら、これを見て」。送信完了の青いチェックマークを、何度も確かめた。確かに、送れている。
翌朝、確かめると、何もかもが、ずれていた。
クラウドの動画は、再生すると映像が止まり、ただ水の滴る音だけが流れた。ぽたん、ぽたん、と。ファイル名は、知らないうちに『水音.mp4』に書き換えられている。DMの履歴には、『あなたがメッセージを取り消しました』とだけ表示されていた。SNSの投稿は、タイムラインから跡形もなく消えていた。代わりに、誰かが古いハッシュタグ「#水牢の娘」をつけて、白いセーラー服の少女と、その少し離れたところに立つ、もう一人の男子学生の影が映る一枚の写真を流していた。学生服の襟は、五十年前の様式のものだった。投稿者のアカウントは、開いた瞬間に削除された。
友人のスマホを借りて、自分の連絡先を確かめてもらった。
「田辺さん、いないよ。連絡先にも、トーク履歴にも」
友人は震える指で画面を見せた。香織の名前は、どこにも、なかった。
データは、水に取られる。香織はそう悟った。記録は、現代の手段でも残らない。残るのは、誰かが書き換えた『水牢の娘』だけ。
耐えきれなくて、香織は翔太に電話をかけた。たった一人、この異常を信じてくれるはずの相手に。
呼び出し音が、三回。繋がった。画面には、確かに彼の名前が表示されている。
「もしもし、翔太君——」
『——ちゃん。き、れ……』
翔太の声は、ひどく遠かった。言葉と言葉の隙間に、ごぼ、ごぼ、と、水の底で泡が昇るような音が混じる。彼が水の中から喋っているのか、それとも、沈んでいるのは自分のほうなのか。
「翔太君、聞こえる? ねえ、聞こえてる?」
『……き……て……る……』
その返事が、彼のものなのか、それとも、回線の奥にいる、もっと古い誰かのものなのか、香織には、もう分からなかった。
スマホを耳から離すと、液晶の表面に、内側から滲み出したような細かい水滴が、びっしりと浮いていた。通話を切ろうとしても、濡れた画面は、香織の指を、もう、認識しなかった。




