第51話 儀式まで、あと一ヶ月
六月一日(金)天気:快晴 【儀式まで、あと19日】
朝五時。まだ薄暗い自室で、香織は目を覚ました。 時計のアラームが鳴るよりも早く、体の内側から響く水音に起こされた。
枕が濡れている。シーツに手を這わせると、そこもまた水浸しだった。最初は寝汗かと思った。しかし、それは体温とは違う、ぞっとするような冷たさを帯びていた。透明で、冷たく、ぬめりのある液体。掌で掬うと、それは体温というものをまるで持っていなかった。自分の内側から滴ったはずなのに、まるで古い井戸の底から汲み上げた水のように、生臭く、よそよそしい。
鏡を見る。自分の顔が、ガラス越しのような距離感で映っている。肌は病的なまでに白く、血管が青い川のように透けて見えた。瞳の色素が薄くなり、深い水底を覗き込むような青緑色を帯びている。もう、昨日までの自分ではない。何かに成り代わられつつある、見知らぬ誰か。
ふと、指先に違和感を覚えた。爪と肉のあいだに、髪の毛ほどの細い藻が、緑がかって生えはじめている。つまんで引こうとすると、ふやけた爪が、皮膚ごと、ぬるりと浮いた。痛みは、まるでなかった。それが、何より怖かった。
「これが、私…?」
声に出してみる。その声さえ、水の中で話しているような反響を伴っていた。 カレンダーの「20」の数字を見つめる。赤いマジックで囲まれたその日付が、血のように滲んで見える。
あと、十九日。
階下から、母の声が聞こえてきた。 「香織、朝ご飯よ」 その声は、いつもより遠く、まるで水面の上から呼ばれているように聞こえた。
制服のブラウスを着ると、背中がひんやりと濡れた。振り返ると、壁に自分の水の跡が残っている。人型の、濡れた痕跡。まるで、もう一人の自分がそこに立っていたかのように。
洗面所で水を出した。蛇口を捻った瞬間、排水口の奥から、低い、吐息のような音が聞こえた。
——水はどこへ行く 水はどこへ行く——
わらべ歌だった。誰かが、排水管のずっと奥で口ずさんでいる。声は止まらない。耐えきれずに蛇口を閉めても、その声だけは、続いた。
鞄を取ろうとして、香織はスマホの画面に目を落とした。日付の表示が、おかしい。
六月一日。そのはずなのに、ロック画面の壁紙——先月、友達と撮った海の写真に添えられた日付が、いつのまにか『昭和四十七年六月二十日』に変わっていた。写真の中の友達の顔も、にじんで、知らない誰かになりかけている。
瞬きをして、もう一度見る。日付は『六月一日』に戻っていた。けれど、確かに端に写っていたはずの自分の姿だけが、もう、どこにもなかった。
壁の時計を見上げる。秒針が、進んでは戻り、進んでは戻りを繰り返していた。まるで時間そのものが水を吸って重くなり、流れることを忘れてしまったかのように。
——零れているのだ。
香織には、なぜか、そう感じられた。何が、どこへ。それを言葉にしようとすると、頭の芯が冷たく痺れて、像を結ぶ前にほどけてしまう。ただ、取り返しのつかないことが、静かに始まっているという感覚だけが残った。
朝食の席は、異様な緊張感に包まれていた。
母・美代子の乾いた目が、香織の濡れた髪を一瞥し、すぐに逸らされる。その瞳は砂漠のように水分を欠き、恐怖と憐憫が混じり合っていた。
姉・真紀の整った顔は、瞬きの間隔まで計算されているような、生気のなさを伴っていた。彼女は香織の変化を、まるで昆虫観察でもするかのように冷静に、しかし一切の感情を見せずに見つめていた。
そして祖母・和子。
「おはよう、香織」
和子の声は、五十年前の少女のように若々しかった。
「今日から、本格的に準備を始めましょうね」
「準備?」
「あなたの、晴れ舞台のための」
和子が微笑む。その柔らかな物腰は慈愛に満ちて見えて、その奥に、底知れぬ狂気を孕んでいた。
通学電車は、いつもの七時十二分発。香織はいつもの位置に立ち、いつものように吊り革を握った。
けれど、近頃は様子が違った。両隣の乗客が、理由もわからないという顔で、少しずつ香織から距離を取っていく。制服のスカートの裾から、ぽたり、と床に水滴が落ちても、誰も目を合わせようとしない。香織は俯いて、濡れた足元を鞄で隠した。
それでも香織は、毎朝この電車に乗り続けた。変わらない時刻表に、変わらない景色に、必死でしがみつくように。普通でいられる時間が、もう長くないと、分かっていたから。




