第43話 消えた、一時間
「健一、私たち、今すぐ東京に行こう」
七月十九日の夕方、美代子は健一に電話をかけた。声が震えていた。
「急にどうした?」
「明日じゃ遅い。今夜、逃げよう」
健一は、美代子の声に含まれる恐怖を感じ取った。
「分かった。準備する。十一時に、いつもの場所で」
最後の夜。美代子は、荷物をまとめていた。最小限の服と、へそくりの十万円。健一からもらった指輪。そして、二人で撮ったプリクラの写真。
「これで、さようなら」
美代子は、十八年間過ごした部屋を見回した。愛着はない。ただの牢獄だった。 明日からは、自由になれる。
時計を見る。午後十時五十九分。あと一分で、家を出る。 しかし、その瞬間、異変が起きた。
部屋の空気が、突然水のように重くなった。 美代子の体が、床に押し付けられる。まるで、深海の底にいるような圧力。動けない。声も出ない。
そして、時計の針が逆回転を始めた。 カチ、カチ、カチカチカチカチ……!やがて、猛スピードで逆回転を始める。
美代子の意識も、過去へと引きずり込まれていく。七歳の夏、祖母に初めて呪いの話を聞かされた日。十三歳の春、初潮が来た日に母から告げられた運命。そして、生まれる前、母の胎内にいた時の記憶まで。
水の中で、声が聞こえた。
『お前も、我らの一部となるのだ』
それは、歴代の犠牲者たちの声だった。
『逃げることはできない』
『運命からは』
『愛する者を捧げよ』
美代子は抵抗した。全身全霊で、その声に逆らった。
「嫌だ!健一は渡さない!」
その時、部屋の天井が水に変わった。 透明な水の天井の向こうに、健一の顔が見えた。彼も同じように、水の中に囚われていた。
「健一!」
美代子が叫ぶと、健一の口が動いた。
『大丈夫』
声は聞こえないが、唇の動きで分かった。
『愛してる』
そして、健一は自ら、水の中へと身を沈めていった。
「やめて!」
美代子が叫んだ瞬間、時計の針が午前零時を指した。 七月二十日。彼女の十八歳の誕生日。
部屋は元に戻っていた。 しかし、美代子は知っていた。 失われた一時間の間に、すべてが終わったことを。




