第44話 雨の朝、警官が訪れた
美代子が目を覚ましたのは、その朝だった。 七月二十日、午前九時。 窓の外は、激しい雨。この町特有の、まるで天が泣いているような豪雨。
玄関のチャイムが鳴った。 嫌な予感がした。
ドアを開けると、警察官が二人立っていた。その表情は沈痛だった。
「田辺美代子さんですね」「はい」「岡本健一さんをご存知ですか?」
美代子の血の気が引いた。
「今朝、ご自宅で亡くなっているのが発見されました」
膝が崩れた。
「嘘...」
「風呂場で、溺死です」
「溺死?」
警察官の説明が続く。
「浴槽には、三十センチほどの水しかなかったんですがね。不可解なことに、肺からは大量の海水が検出されまして。それも、通常の海水とは成分が大きく異なる、深海の水のような...」
さらに奇妙なことに、健一の部屋からは大量の水が溢れ出していた。まるで、部屋全体が水槽になったかのように。壁には、びっしりと水滴が付着し、天井からは今も水が滴り続けていた。
「あと、これを」
警察官が、ビニール袋に入った健一の遺品を差し出した。美代子があげた指輪と、最後のメッセージ。
『美代子へ 俺は自分から水に入った 君を守るために 君の誕生日に、君の代わりに 愛してる これは俺の選択だ どうか、自由に生きてくれ 健一』
美代子は、そのメッセージを読んで崩れ落ちた。 健一は知っていたのだ。呪いのことを。そして、美代子を救うために、自ら犠牲になることを選んだ。
健一の葬儀。 美代子は、最前列に座っていた。泣きたかった。号泣したかった。でも、涙が出ない。目が、砂漠のように乾いている。どんなに悲しくても、苦しくても、一滴の涙も流れない。
それは、まるで体内の水分がすべて奪われたかのようだった。
これが、罰なのか。 儀式から逃げようとした報い。愛する人を失い、涙も失った。
その日から、美代子の時間は壊れた。 毎日、午前四時二十分になると、失われた一時間が始まる。その中で、美代子は健一の死を追体験する。冷たい水が肺を満たす苦しみ、助けを求める声、そして遠ざかる意識。それを、毎日、毎日、永遠に。
そして、最も残酷なのは、美代子の記憶だった。 健一との幸せな日々の記憶が、少しずつ水に溶けるように薄れていく。彼の笑顔、声、温もり。すべてが、霧のように曖昧になっていく。
唯一鮮明に残るのは、あの最後の夜の記憶だけ。 水の天井の向こうで、自ら沈んでいく健一の姿。 その映像が、壊れたフィルムのように、何度も何度も脳裏に再生される。
水に愛されることも、水に触れることも許されない。涙の一滴さえ、もうこぼすことができない。それが、美代子の渇きだった。死ぬまで満たされることのない、罰のような渇き。




