第40話 愛してしまった人
四月の終わり、ゴールデンウィーク前。 その日は珍しく晴れていた。しかし、空気は湿っていて、まるで雨雲が皮一枚隔てたところで待機しているような、不安定な天気だった。
美代子は、友達とカラオケに行った帰りだった。 駅前の、薄暗い路地。三人の男に絡まれた。
「ねえ、カワイイじゃん。俺たちと朝まで遊ぼうよ」
酒臭い息が、美代子の顔にかかる。逃げようとした瞬間、男の一人が彼女の腕を掴んだ。その手は湿っていて、不快な感触が肌に残った。
「やめてください!」
美代子が声を上げた時、一台のバイクの轟音が響いた。エンジンの熱気が、湿った空気を切り裂くように伝わってくる。
「おい、何してんだ、てめえら」
革ジャンを着た青年が、バイクから降りてきた。 岡本健一。二十一歳。地元の大学四年生。 身長180センチの長身。日焼けした肌に、鋭い目つき。一見、不良のような風貌。しかし、その瞳の奥には、優しさが宿っていた。
「関係ねえだろ、引っ込んでろ」
男たちが威嚇する。空気が張り詰める。
「関係あるね。俺の女に何か用か」
健一が、美代子の手を掴んだ。その手は大きく、少しタバコの匂いがした。でも、不思議と温かかった。先ほどの男の湿った手とは違う、乾いた熱を持った手。
「行くぞ」 有無を言わせず、美代子をバイクの後ろに乗せる。 「しっかり掴まってろ」 美代子は、健一の腰に腕を回した。革ジャンの冷たい感触と、その下から伝わる体温。ガソリンと、微かに香るミントの匂い。不思議と不快ではなかった。むしろ、安心感さえ覚えた。
バイクが走り出す。風が、美代子の髪を激しくなびかせる。湿った春の空気を切り裂いて進む感覚。 自由だ、と思った。この感覚。家の息苦しさから解放される、疾走感。水の重さから逃れる、軽やかさ。
「ありがとうございました」
安全な場所で降ろされた後、美代子が礼を言った。
「気にすんな」 健一が、ヘルメットを脱ぐ。短く刈り上げた髪。整った顔立ち。不良っぽい外見とは裏腹に、優しい目をしていた。そして、その目には生命力が溢れていた。田辺家の女たちが持つ、水のような冷たさとは正反対の、太陽のような熱さ。
「名前は?」 「美代子」 「俺は健一。よろしくな」
それが、二人の始まりだった。 運命の歯車が、軋む音を立てて回り始めた瞬間だった。




