第39話 二十四年前の、たった一度の失敗
平成九年、春 - 反抗の少女
二十四年前、平成九年四月。 雨の多い春だった。この町特有の、空に穴が空いたかのように執拗に降り続く雨。住民たちは「また雨か」と諦観の溜息をつきながら、湿った日々を過ごしていた。
田辺美代子は、家族の中で異質な存在だった。 十七歳。高校三年生。 祖母の和子や、未来の娘である真紀とは正反対の、自由奔放な性格。髪を明るい茶色に染め、スカートは膝上十五センチまで短くし、白いルーズソックスを履いていた。当時の女子高生の典型的なスタイルは、この古風な家の中ではあまりにも浮いていた。
朝食の席で、母の和子が口を開いた。食卓の上で、味噌汁から立ち上る湯気が、じっとりとした朝の空気に溶けていく。
「美代子、その髪を黒く戻しなさい。田辺家の娘としてみっともない」
和子の声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。その目は、まるで深い井戸の底を覗き込むような、底知れぬ暗さを宿していた。
「嫌よ。みんな染めてるもん。お母さんの時代とは違うの」
美代子は反発した。しかし、その強がりの裏で、母の視線に含まれる何かが、彼女の背筋を凍らせた。
「みんなとは誰ですか。うちは違います」
和子の声が、氷のように冷たくなる。その刹那、部屋の温度が実際に下がったような錯覚を覚えた。窓ガラスに、季節外れの結露が浮かぶ。
「うちには、うちの決まりがあります」
「古臭い決まりなんて、知らないわ。水に男を捧げる?馬鹿馬鹿しい」
美代子は、味噌汁を飲み干すと乱暴に椀を置いて席を立った。椀の底に残った味噌が、まるで血溜まりのように見えた。
「美代子」 和子が立ち上がろうとした時、彼女の足元から微かに水が滲み出た。畳に、じわりと広がる水の染み。それは朝露でも、こぼれた茶でもない。もっと冷たく、もっと深いところから湧き出る水だった。 「待ちなさい」
「遅刻するから!」
美代子は振り返らずに玄関へ向かった。しかし、廊下を歩く間、背中に母の視線を感じ続けた。それは物理的な重さを持っているかのように、彼女の肩にのしかかった。
玄関で靴を履きながら、美代子は思った。 二十世紀も終わろうとしているのに、まだそんな迷信を信じているなんて。科学の時代に、呪いなんてあるわけがない。すべては、この古くて陰気な家が生み出した妄想なのだ、と。
しかし、靴紐を結ぶ手が微かに震えていることに、彼女は気づかないふりをした。




