第38話 完成してしまった狂気
水が引いた後、真紀は生まれ変わっていた。 一度目の儀式で得た美しさが、さらに研ぎ澄まされ、完璧なものへと昇華されていた。肌は光を放つように白く、瞳は宝石のように澄み渡る。体内の時計も、再び完璧なリズムを取り戻した。
しかし、その代償として、彼女は最後の人間性のかけらを失った。
その夜、真紀は自室で一人、鏡を見つめていた。完璧な美貌。人形のような、生気のない美しさ。
長い時間、真紀は動かなかった。やがて、ゆっくりと、自分の頬に触れた。首筋をなぞり、唇の輪郭を指でたどる。冷たい指が、冷たい肌をどこまでも辿っていく。
やがて、口元に、陶酔の微笑みが浮かんだ。
これだ。聡を、浩介を、二人ぶんの命を捧げて、私はとうとう、ここに辿り着いた。永遠の美。誰にも触れられない、完璧な人形。
鏡の中の自分に、真紀は囁いた。
「綺麗ね」
「これが、私の選んだ道」
鏡の中の自分に語りかける。その声は、複数の女性の声が重なったような、異質な響きを帯びていた。
突然、鏡の表面が波打った。 そこに映ったのは、聡の顔だった。水の中で、苦しそうに、しかし愛おしそうに真紀を見つめている。
『なぜ、まだ見ている』
真紀が問いかけると、聡の唇が動いた。
『君が、本当は泣いているから』
真紀の頬に、一筋の水が流れた。 涙ではない。ただの、水。 しかし、その水は熱かった。まるで、失われた人間性が最後に残した、魂の残滓のように。
「違う。私はもう、泣かない」
鏡を手で払うと、聡の姿は水のように散って消えた。 真紀は振り返らずに部屋を出た。廊下には、母の美代子が立っていた。
「真紀」 「何?」 「香織に、気をつけなさい」
美代子の乾いた声が、暗い廊下に響く。
「あの子は、あなたとは違う。抵抗するわ」 「だから?」 「だから、もっと残酷な結末が待っているかもしれない」
真紀は冷たく笑った。
「残酷?これ以上の残酷があるというの?」
美代子は答えなかった。ただ、窓の外を見つめていた。そこには、梅雨の走りのような、重たい雲が垂れ込めていた。
真紀は思った。 この妹は、私とは違う結末を迎えるかもしれない。 より幸福な結末か、より悲惨な結末か。 どちらにせよ、もう私には関係のないこと。
夜、真紀の部屋に、水音が響いた。三十秒に一度。心臓の鼓動と気味悪く同期したその規則正しい滴りは、聡が最後に流した涙の音のようでもあり、浩介の断末魔の泡の音のようでもあった。
真紀は目を閉じた。 水音は続く。 永遠に、永遠に。
これが、彼女の選んだ永遠。 美しく、冷たく、そして途方もなく孤独な、水の牢獄。




