表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水に取られた ー零れる刻限ー (改訂版)  作者: 大西さん
第七章 姉という巫女
PR
37/61

第37話 次の獲物を、選ぶ

真紀は、新たな犠牲者を探し始めた。もはや、運命に流される娘ではない。自ら獲物を見定め、狙いを定める。それは紛れもなく、「狩り」だった。


彼女は、岡田浩介を選んだ。 法学部の、聡明で、純粋で、そして深い愛情を捧げてくれそうな青年。聡によく似た、優しい目をした男。


真紀は、自らの美貌と知性を武器に、計画的に浩介を懐柔していった。図書館での偶然を装った出会い、勉強会という名の接近、そして計算され尽くした告白の受諾。すべては、綿密に練られた一手だった。


「真紀さん、僕、君のことが……好きです」


「私も、浩介君のことを想ってたの」


その言葉に、一片の真実もなかった。すべては、儀式のための準備だった。 浩介が真紀を愛すれば愛するほど、真紀の心は冷え切っていった。 これは、愛ではない。儀式のための、準備だ。


ある夜、浩介との電話を終えた後、真紀は誰もいない部屋で、無意識にわらべ歌を口ずさんでいた。その声は機械的で、まるで録音されたかのように感情がなかった。


「水は冷たい でも怖い 凍える指で 手を繋ぐ ひとつ、ふたつ、みつ、よつ、 愛しいあなたの 涙となる」


そして、二十二歳の誕生日。 真紀は、浩介を故郷の廃寺へと誘った。


「特別な場所を見せたいの」


高校の制服を着たのは、浩介を油断させるための計算だった。過去への郷愁を演出し、警戒心を解く。すべてが、綿密に計画された演技だった。


地下へと降りていく道程で、真紀の心は凍りついていた。一度目のときのような人格の分裂はない。あるのは、目的を遂行するための冷徹な意志だけ——そのはずだった。


水時計の部屋。退路が断たれ、足元から水が満ちはじめる。真紀は、震えてみせ、扉を叩いてみせた。涙も流した。といっても、それは体から滲み出したただの水だ。完璧な演技だった。


浩介は、必死に彼女を守ろうとした。自分の体で扉をこじ開けようとし、彼女を肩で押し上げてでも水面の上に出そうとした。その純粋さが、真紀の凍てついた胸を、チクリと刺す。だが、それだけだった。聡のときに胸を引き裂いたあの激痛は、もう来ない。何も、来ない。


——何も?


水が首まで来たとき、真紀は演技をやめた。


「ごめんね。演技だったの」


口にした瞬間、足元が抜けるような感覚に襲われた。怖かったのではない。何も感じないことが、怖かった。聡を沈めたあの夜、引き裂かれるほど痛かった胸が、いまはただ、空っぽだった。底のない穴が、そこに空いている。


「真紀さん……なぜ……」「美しさを、保つため」


そう答えた自分の声が、他人のもののように遠い。真紀はふいに、笑い出していた。低く、それからこらえきれずに、甲高く。水の天井に反響して、その笑い声は何人もの女の笑いに増えていく。


「おかしいでしょう。私、あなたを愛していないの。一度も。聡のときは、あんなに痛かった。胸が引き裂かれて、死んでしまいたかった。だから、あなたなら、もっと深く私を傷つけてくれると思ったのよ。もっと愛して、私を罵って、私の心をズタズタに殺してって——そう願って、ここまで連れてきたのに」


真紀は、震える指で、浩介の肩を強く掴んだ。


「なのに、何も痛くない。あなたがどれだけ私を愛しても、私の心には、かすり傷ひとつ、つかないの。ねえ、浩介君、もっと私を憎んで。騙した私を化け物だと叫んで、私の胸を抉ってみせてよ」


笑いながら、頬を冷たい水が伝った。涙ではない。涙であるはずがない。なのに、止まらなかった。


「ねえ、愛して。もっと。私を見て。お願いだから——私が空っぽじゃないって、証明して!」


それが懇願なのか呪詛なのか、自分でも分からなかった。浩介の純粋な瞳が、鏡のように真紀を映している。そこに映る自分が、化け物に見えた。


「やめて。そんな目で、私を見ないで」


真紀は浩介の肩に手をかけた。守るためでも、すがるためでもない。ただ、その瞳から逃れたかった。そして気づけば、唇が勝手に歌っていた。子守唄のように、あやすように。


「水はどこへ行く 水はどこへ行く 愛しいあの人 迎えに——」


歌いながら、彼女は浩介を水の中へ沈めていった。一度目のような激情はない。けれど、冷静でもなかった。泣きながら、笑いながら、歌いながら——狂気と哀しみが、冷たい水の底で渾然と溶け合っていく。


笑いながら、真紀は頬を伝う水に、指で触れてみた。涙のはずのそれに、何の熱もない。悲しいのかどうかすら、もう、自分では分からなかった。空っぽの器の中で、笑い声だけが、ひとりでに響き続けていた。


水が天井に達し、浩介の体が水路に吸い込まれていく。最後に、彼の唇が動いた。


「それでも……愛してる……」


その言葉は、真紀の空っぽの穴の底に、小石のように落ちて、いつまでも、音を立てなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ