第37話 次の獲物を、選ぶ
真紀は、新たな犠牲者を探し始めた。もはや、運命に流される娘ではない。自ら獲物を見定め、狙いを定める。それは紛れもなく、「狩り」だった。
彼女は、岡田浩介を選んだ。 法学部の、聡明で、純粋で、そして深い愛情を捧げてくれそうな青年。聡によく似た、優しい目をした男。
真紀は、自らの美貌と知性を武器に、計画的に浩介を懐柔していった。図書館での偶然を装った出会い、勉強会という名の接近、そして計算され尽くした告白の受諾。すべては、綿密に練られた一手だった。
「真紀さん、僕、君のことが……好きです」
「私も、浩介君のことを想ってたの」
その言葉に、一片の真実もなかった。すべては、儀式のための準備だった。 浩介が真紀を愛すれば愛するほど、真紀の心は冷え切っていった。 これは、愛ではない。儀式のための、準備だ。
ある夜、浩介との電話を終えた後、真紀は誰もいない部屋で、無意識にわらべ歌を口ずさんでいた。その声は機械的で、まるで録音されたかのように感情がなかった。
「水は冷たい でも怖い 凍える指で 手を繋ぐ ひとつ、ふたつ、みつ、よつ、 愛しいあなたの 涙となる」
そして、二十二歳の誕生日。 真紀は、浩介を故郷の廃寺へと誘った。
「特別な場所を見せたいの」
高校の制服を着たのは、浩介を油断させるための計算だった。過去への郷愁を演出し、警戒心を解く。すべてが、綿密に計画された演技だった。
地下へと降りていく道程で、真紀の心は凍りついていた。一度目のときのような人格の分裂はない。あるのは、目的を遂行するための冷徹な意志だけ——そのはずだった。
水時計の部屋。退路が断たれ、足元から水が満ちはじめる。真紀は、震えてみせ、扉を叩いてみせた。涙も流した。といっても、それは体から滲み出したただの水だ。完璧な演技だった。
浩介は、必死に彼女を守ろうとした。自分の体で扉をこじ開けようとし、彼女を肩で押し上げてでも水面の上に出そうとした。その純粋さが、真紀の凍てついた胸を、チクリと刺す。だが、それだけだった。聡のときに胸を引き裂いたあの激痛は、もう来ない。何も、来ない。
——何も?
水が首まで来たとき、真紀は演技をやめた。
「ごめんね。演技だったの」
口にした瞬間、足元が抜けるような感覚に襲われた。怖かったのではない。何も感じないことが、怖かった。聡を沈めたあの夜、引き裂かれるほど痛かった胸が、いまはただ、空っぽだった。底のない穴が、そこに空いている。
「真紀さん……なぜ……」「美しさを、保つため」
そう答えた自分の声が、他人のもののように遠い。真紀はふいに、笑い出していた。低く、それからこらえきれずに、甲高く。水の天井に反響して、その笑い声は何人もの女の笑いに増えていく。
「おかしいでしょう。私、あなたを愛していないの。一度も。聡のときは、あんなに痛かった。胸が引き裂かれて、死んでしまいたかった。だから、あなたなら、もっと深く私を傷つけてくれると思ったのよ。もっと愛して、私を罵って、私の心をズタズタに殺してって——そう願って、ここまで連れてきたのに」
真紀は、震える指で、浩介の肩を強く掴んだ。
「なのに、何も痛くない。あなたがどれだけ私を愛しても、私の心には、かすり傷ひとつ、つかないの。ねえ、浩介君、もっと私を憎んで。騙した私を化け物だと叫んで、私の胸を抉ってみせてよ」
笑いながら、頬を冷たい水が伝った。涙ではない。涙であるはずがない。なのに、止まらなかった。
「ねえ、愛して。もっと。私を見て。お願いだから——私が空っぽじゃないって、証明して!」
それが懇願なのか呪詛なのか、自分でも分からなかった。浩介の純粋な瞳が、鏡のように真紀を映している。そこに映る自分が、化け物に見えた。
「やめて。そんな目で、私を見ないで」
真紀は浩介の肩に手をかけた。守るためでも、すがるためでもない。ただ、その瞳から逃れたかった。そして気づけば、唇が勝手に歌っていた。子守唄のように、あやすように。
「水はどこへ行く 水はどこへ行く 愛しいあの人 迎えに——」
歌いながら、彼女は浩介を水の中へ沈めていった。一度目のような激情はない。けれど、冷静でもなかった。泣きながら、笑いながら、歌いながら——狂気と哀しみが、冷たい水の底で渾然と溶け合っていく。
笑いながら、真紀は頬を伝う水に、指で触れてみた。涙のはずのそれに、何の熱もない。悲しいのかどうかすら、もう、自分では分からなかった。空っぽの器の中で、笑い声だけが、ひとりでに響き続けていた。
水が天井に達し、浩介の体が水路に吸い込まれていく。最後に、彼の唇が動いた。
「それでも……愛してる……」
その言葉は、真紀の空っぽの穴の底に、小石のように落ちて、いつまでも、音を立てなかった。




