第35話 美貌が、崩れ始める
大学に進学し、東京で暮らし始めた真紀は、手に入れた永遠を謳歌しているように見えた。 しかし、二十一歳を過ぎた頃から、微かな変化が訪れた。
朝、鏡を見ると、目尻にごくごく僅かな皺が見える気がした。陶器のようだった肌に、人間らしい微かな色ムラが戻ってきた。何より恐ろしかったのは、体内の時計が狂い始めたことだ。正確に三秒間隔だった瞬きが、時折二・九秒になったり、三・一秒になったりする。心臓の鼓動も、完璧なリズムを失いかけていた。
それは、死へと向かう「人間」への逆戻りの合図だった。
真紀は、自室の窓からきらびやかな東京の夜景を見下ろしていた。高級ブランドの服も、豪華な食事も、彼女の凍てついた心を満たすことはない。
「聡、あなたを殺して手に入れた世界は、こんなにも空っぽだった」
美しさだけが、真紀に残された、たった一つのものだった。
聡を、心の底から愛していた。あの温かい笑顔を、自分の手で、冷たい水の底へ沈めた。水神は二人の愛を一息に飲み干し、その代価として、真紀にこの美を与えた。
——だから、この美こそが、聡の死の、たった一つの意味なのだ。
もし、この美が衰え、ありふれた老いた女に戻ってしまったら。そのとき、聡は、何のために死んだことになる。最も愛した人を、自らの手で殺した。その取り返しのつかない罪を、辛うじて「意味のあること」に変えているのが、この永遠の美だった。美が消えれば、あとに残るのは、ただ恋人を一人、殺しただけの女だ。
そして何より——美とともに麻痺していた心が、戻ってくる。聡を恋しいと思う心が。彼を殺したことを悔やむ心が。あの夜の水の冷たさを、指がまだ覚えているという、その感覚が。
それだけは、耐えられなかった。
老いるとは、真紀にとって、捨てたはずの感情が牙を剥いて還ってくることだった。だから彼女は、美に縋った。それは、虚栄ではなかった。美しくあり続けることだけが、聡を殺した自分を正当化し、聡を悼む心から目を逸らし続けられる、唯一の方法だったのだ。
「聡の死を無駄にはしない。そのためなら、私は何度でも鬼になる」。




