第34話 地下へ降ろされる
廃寺へと向かう道すがら、真紀の中では二人の自分が激しく戦っていた。
「逃げて!」と叫びたい人間の真紀と、「こちらへ」と誘う巫女の真紀。 灯油と黴の混じった匂いが鼻を突く。地下へ続く暗い階段を下りながら、口からは「大丈夫よ、こっちよ」という穏やかな言葉が出る。
階段の石は濡れて滑りやすく、一歩踏み外せば奈落へと落ちていきそうな錯覚に陥る。
聡を助けたいのに、手は彼の手を優しく握り、水時計のある部屋へと導いていく。聡の手は温かかった。その温もりが、真紀の凍てついた心に最後の痛みを与えた。
「真紀、何なんだ、これは」
水が満ち始めたとき、聡の喉仏が、一度だけ大きく動いた。けれど彼の表情は、不思議なほど穏やかなままだった。腰まで水位が達した時、聡が初めて彼女の名を呼んだ。
「真紀」
その声には、責めるような響きはなかった。ただ、深い悲しみと、それでもなお彼女を愛し続ける決意が込められていた。
「君のせいじゃない。分かってる」
その言葉に、真紀の中の人間性が悲鳴を上げた。 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。 声にならない叫びが、体内でこだまする。涙を流したかった。しかし、目から溢れたのは、涙ではなく、体内の水が変化しただけの冷たい液体だった。
水底の口づけ
水が首まで満ちた、最後の瞬間。 真紀は、抗いがたい力に導かれるように聡の前に立ち、その唇に、自らの唇を重ねた。
それは、冷たい水の底で交わされた、熱い、人間としての最後のキスだった。 愛している、という言葉の代わりに。 永遠のさよならの代わりに。
水の中でも、聡の体温は温かかった。彼の手が、最後の力を振り絞って真紀の頬に触れた。その刹那、真紀は見た。聡の瞳の奥に、恐怖ではなく、深い愛情と、そして彼女への赦しが宿っているのを。
「愛してる」
聡が水の中で口を動かした。音は聞こえなかったが、その形は確かに読み取れた。 その言葉と共に、彼は水に飲まれた。
水が引いた後、真紀は生まれ変わっていた。人間を超えた美しさを手に入れ、心は凍りついた。 これが、一度目の悲劇。
二度目の儀式 - 令和二年、冷徹な遂行




