第26話 亮介の最後の言葉
自室に戻り、翔太は亮介の日記を開いた。野球部の練習日誌を兼ねた、ごく普通の大学ノート。しかし、最後の日付、昭和四十七年六月十九日のページだけは、インクが滲み、文字が震えていた。
『和子を愛している。何があっても、俺が守る。たとえ、俺が人間でなくなっても。
この町に伝わる呪いは、本物だ。田辺家の女は、十八歳になると愛する男を水に捧げなければならない。馬鹿げた迷信だと思っていた。でも、違う。あれは、抗うことのできない、水の摂理のようなものだ。
和子は、その運命に苦しんでいる。彼女を一人にはできない。
明日、俺は和子と一緒に行く。儀式の場所へ。
これは、誰かに強制されたわけじゃない。俺自身の選択だ。愛する女を守る。男として、当たり前のことだ。
もし、この日記を誰かが読んでいるなら、頼む。和子を責めないでくれ。彼女もまた、この呪いの被害者なんだ。
源ちゃん、父さん、母さん、ごめん。
でも、俺は幸せだった。和子と出会えて、本当に幸せだった』
日記を閉じ、翔太は目を閉じた。亮介の覚悟が、五十年の時を超えて胸に迫る。愛のために死を選ぶ。自分に、そんなことができるだろうか。
いや、違う。祖父は言った。「生きる道を探せ」と。
それでも——日記を閉じたあとも、翔太の胸の奥には、奇妙な熱が灯ったままだった。それは恐怖ではなかった。亮介になれる、五十年前に途切れた物語の続きを自分が引き受けられる、と思った瞬間の、あの高揚に似た何か。
翔太は、慌ててそれを打ち消した。違う。僕は、香織を助けたいだけだ。亮介の身代わりになりたいわけじゃない。
けれど、打ち消したあとも、熱は小さく燻り続けた。祖父の遺した資料の山に囲まれて育った自分は、いつから、この呪いの物語に「入りたい」と願うようになっていたのだろう。彼女を孤独から引き上げたいのか、それとも、彼女と同じ世界へ落ちていきたいのか。その境目が、自分でも、もう、よく見えなかった。
翔太は、香織の顔を思い浮かべた。図書室で見た、儚げな横顔。深い孤独の影。彼女もまた、この呪いに苦しんでいる。亮介が和子を守ろうとしたように、自分も香織を守りたい。
しかし、どうやって?
答えは、歴史の中にしかない。この呪いの起源、水時計の正体、そして町の秘密。すべてを解き明かさなければ、道は開けない。
その時、家の外で奇妙な音がした。
ぽたん。
たった一滴。それきり、音は止んだ。規則正しく、三十秒に一滴。雨音ではない。もっと重く、粘り気のある音。まるで、巨大な何かが脈打つ音のようだった。
その夜、翔太は夢を見た。
水の中だった。冷たい水が、首まで満ちている。見上げると、水面の向こうに、長い黒髪の少女が立っていた。制服の紺色。切れ長の瞳。その顔は——香織のようでもあり、写真でしか知らないはずの、若き日の和子のようでもあった。
少女の手が、翔太の胸を、そっと押した。
抗えなかった。むしろ、安堵していた。ああ、やっと、ここへ来られた、と。
目を覚ますと、喉の奥が、ひどく濡れていた。咳き込むと、口の端から、つうっと、冷たい水が一筋伝う。汗ではない。
——これは、僕の夢じゃない。
翔太は、暗い天井を見つめた。亮介が五十年前に見たはずの最後の光景が、まるで自分自身の記憶のように、夢の中へ流れ込んでくる。怖い、とは思わなかった。それが、何よりも、怖かった。




