第25話 祖父が遺した書斎
田中翔太の部屋の半分は、本で埋まっていた。歴史書、民俗学の専門書、郷土史の資料。しかし、その半分は自分の意志で集めたものではなかった。部屋の北側を占める巨大な本棚と、床に積み上げられた資料の山は、すべて祖父・源三郎から半ば強制的に譲り受けたものだ。
それは、五十年にわたる執念の記録だった。
「翔太、少し付き合え」
四月十六日の夜、図書館から帰宅した翔太を、源三郎が書斎に呼びつけた。
八畳ほどの書斎は、インクと古い紙の匂い、そして消されることのない線香の香りが混じり合った、独特の空気に満ちていた。壁一面の本棚には、弟・亮介に関する調査資料がファイルにまとめられ、几帳面に並べられている。地元紙のスクラップが分厚く綴られた一冊——「快投連発の岡上高校、ベスト八進出!」「夏の悲劇、岡上高校エース行方不明 将来を嘱望された投手」「捜索打ち切り、ご家族は心痛深く」。色あせた昭和四十七年度の卒業アルバム。亮介が打った夏のホームランを、地元紙のカメラマンが捉えた一枚の白黒写真。そして、彼が最後の試合で着ていたユニフォーム——背番号「7」のレプリカが、変色から守るためにガラスのフレームに収められて、机の正面に置かれていた。それはもはや書斎ではなく、一人の人間を弔い続けるための、私的な霊廟のようだった。
源三郎は、色褪せた一枚の写真を磨いていた。昭和四十七年の夏、甲子園予選でホームランを打った亮介が、はにかみながら笑っている写真だ。その指の動きは、儀式のように丁寧で、狂気じみていた。
「今日、田辺の娘に会ったそうだな」
源三郎は、翔太の顔を見ずに言った。その声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「……なぜそれを」
「この町でわしの知らんことはない。特に、あの家に関してはな」
源三郎はゆっくりと立ち上がると、本棚の一角から古びた地図を広げた。町の古い地図だ。その上には、赤いインクで無数の書き込みがされている。
田辺家の屋敷を中心に、廃寺、古い井戸、そして過去に行方不明者が出た場所が、蜘蛛の巣のように線で結ばれていた。それは、一人の人間の執念が可視化された、呪いの設計図だった。
地図の隅、いちばん古い書き込みに、翔太の目が留まった。すっかり色褪せた朱で、天保十三年、と。その傍らに、墨で記された名前がひとつ。「松姫」。
「お祖父さん、この、松姫っていうのは……」
源三郎は、しわがれた声で答えた。
「分からん。だが、わしの集めた古文書を遡れるだけ遡ると、必ず、その名にぶつかる。この呪いの、いちばん最初にいた巫女らしい、ということしか」
最初の巫女。翔太は、その響きを、頭の隅に刻みつけた。すべての始まりに、その少女がいる。なぜか、そんな予感がした。
「亮介が消えてから、わしはこの町を調べ続けた。住民に話を聞き、古文書を読み解き、土地の記憶を掘り起こした。だがな、誰も本当のことは話さん。皆、口を揃えて同じことを言うだけだ」
源三郎の目に、深い疲労と怒りの色が浮かぶ。
「『また雨か』。それがこの町の連中の口癖だ。だがな、翔太、あれは諦観じゃない。恐怖から目を逸らすための、呪文だ。この町は、呪いの共犯者なのだ。見て見ぬふりをすることで、五十年間、秘密を守り続けてきた」
祖父の言葉は、翔太の胸に重くのしかかった。彼は、この調査を継ぐことを期待されている。亮介の生まれ変わりとして、五十年前の悲劇に決着をつけることを。
「わしの家はな、昔からこの町で煙たがられてきた」
源三郎が語る。
「亮介が消えてから、母親は心の病を患い、父親は酒に溺れた。田中家は、あの呪いの共犯者として、ずっと村八分にされてきたんだ」
翔太は、幼い頃に父親が蒸発し、母親が心を閉ざした過去を思い出していた。元をたどれば、すべては亮介の失踪から、一本の糸を引くようにほどけ落ちていったのだ。
「そして、わしには友人がいた。村の外の世界を見せてくれた、唯一の友人だ。だが、彼はこの町の川で溺死した。事故とされたが、わしは知っている。あれは、水に呼ばれたんだ」
源三郎が初めて村の外に出たのは、その友人の死がきっかけだった。都会に出た源三郎は、様々な価値観に触れ、この村の閉鎖性と異常性を客観的に認識するようになった。
「都会で暮らすうちに、わしは悟ったのだ。この町の人々は、呪いを『平穏』と引き換えに受け入れている。村八分にされ、嘲笑され、それでもここに留まらざるを得ん者たちの悲哀を、わしは誰よりも知っておる」
だからこそ源三郎は、孫の翔太が心を寄せるその娘を、救いたいと願った。田辺の家に生まれながら、しきたりに抗おうとしているという——翔太から伝え聞いたその姿に、かつての自分と同じ孤独を、勝手に重ねていたのかもしれない。
「じいちゃん、俺は……」
翔太が何かを言いかけた時、源三郎は彼の肩に手を置いた。節くれだった、硬い手。その手から、五十年の歳月が凝縮されたような重みが伝わってくる。
「お前は、亮介ではない。それは分かっている。だが、お前には亮介と同じ目がある。真実を見ようとする目だ」
源三郎は、鍵のかかった引き出しから、一冊のノートを取り出した。
「これは、亮介が最後に残した日記だ。わしがずっと隠していた。お前が『その時』を迎えるまで」
『その時』が、いつの何を指すのか、翔太にはよく分からなかった。ただ、祖父の声に滲んだ重さだけが、やけに耳の奥に残った。
「俺は、亮介の代わりじゃない」
翔太は、初めて祖父に反発した。喉の奥で長く燻っていた言葉が、自分でも思いがけず、口を突いて出ていた。
「分かっている」 源三郎の声は、意外なほど穏やかだった。
「だからこそ、お前に託すのだ。亮介はあまりに優しく、そして真っ直ぐすぎた。愛する者を守るために、自らを犠牲にすることしか考えられなかった。だが、お前は違うだろう。お前は疑い、考え、別の道を探そうとする。だから、お前はお前のやり方で、真実を探せ。亮介が愛のために死を選んだのなら、お前は愛のために生きる道を探せ」
源三郎の目は、潤んでいるように見えた。それは涙ではない。五十年間、枯れることのなかった執念の炎が、揺らめいているだけだった。




