第18話 どこからか、水音が始まる
『亮介の足跡 - 五十年の記録』
祖父が集めた、膨大な資料の写し。
「一緒に、真実を見つけよう」
翔太の眼差しは、真剣だった。
「もう逃げられないなら、せめて理解したい。なぜこんなことが起きるのか」
香織は、翔太の手を握り返した。 初めて、恐怖の中に小さな希望を見出した。 一人じゃない。 この呪われた運命に、共に立ち向かう者がいる。
帰り道、二人は途中まで一緒だった。
商店街のコンビニに寄って、翔太はホットの缶コーヒーを、香織は肉まんを買った。レジ店員の気だるい「あたためますか」も、自動ドアの間延びした電子音も、何もかもがいつもどおりの夕方だった。秘密を抱えた今日でさえ、世界はこんなに普通の顔をしている。
別れ際、ふと見上げた空に、薄い月が出ていた。その月が、足元の側溝を流れる雨水に、揺れて映っている。けれど——水面の月だけが、空の月よりも、ずっとくっきりと、丸く満ちていた。まるで、水の中にだけ、別の夜があるみたいに。
香織は足を速めた。気のせいだと、何度も自分に言い聞かせながら。
水音の始まり
その夜、香織の家で異変が起きた。 深夜二時。 家中の時計が、一斉に逆回転を始めたのだ。カチ、カチ、カチ…と、普段とは逆のリズムで秒針が、分針が、時針が、猛烈な速さで過去へと遡っていく。
そして、どこからともなく、水音が響き始めた。三十秒に一滴。耳ではなく、頭の芯で直接鳴っているような、不快な反響を伴って。規則正しく、単調に、執拗に。それは地下から、床下から、壁の奥から。家全体が、巨大な水時計と化したかのように。
香織は布団の中で震えていた。枕元に置いた携帯電話が光る。翔太からのメッセージ。
『今、変な音が聞こえない?水の音みたいな』
香織は震える指で返信した。
『聞こえる。家中から』
『僕の家でも。きっと、始まったんだ』
始まった。 何が?分からない。 でも、確実に何かが動き出している。五十年間眠っていた呪いが、再び目を覚ましようとしている。
窓の外では、雨が激しさを増していた。まるで、天が割れて、すべての水が地上に降り注ぐかのように。その雨音の中に、かすかに聞こえる。無数の声が。
『おいで』 『こちらへ』 『待っている』
香織は耳を塞いだ。でも、声は頭の中に直接響いてくる。これが、水の呼び声。
あと六十五日。 儀式まで、あと六十五日。
香織は日記帳に震える字で書いた。
『始まってしまった。もう、後戻りはできない』




