第16話 体の奥で、時計が鳴る
「ごめん、驚かせた?」 翔太が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、大丈夫です」 香織は、本を胸に抱いた。隠そうとしたわけではない。でも、無意識にそうしていた。この本に書かれている秘密を、誰にも見られたくなかった。
「民俗学に興味があるの?」 翔太が、本の背表紙を見て言う。
「ちょっと…」
「実は、僕もなんだ。特に、この地方の伝承に」
翔太は、隣の椅子を指差した。
「座ってもいい?」
香織は頷いた。
翔太が座ると、微かに石鹸の香りがした。清潔で、爽やかな香り。それに混じって、かすかにインクの匂い。本を愛する者特有の匂い。そのあまりに普通な日常の香りが、香織の張り詰めた心を少しだけ和らげた。
「実は、その本、前から読みたかったんだ。でも、いつも貸し出し中で」
「貸し出し中?」
香織は、本の裏表紙を見た。貸し出しカードが入っている。最後に借りたのは…
『田辺真紀 平成二十八年五月』
六年前。姉が、十八歳になる直前。
「知ってる人?」
翔太が、カードを覗き込む。彼の顔が、少し近い。眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐ香織を見ている。茶色い、優しい瞳。亮介さんの写真で見た瞳と、どこか似ている。
「姉です」
「へえ、お姉さんも民俗学に興味があったんだ」 翔太の顔が、少し近い。眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐ香織を見ている。 「それ、読み終わったら、貸してもらえる?」
その瞳は、香織の方を向いていながら、本当は本のずっと奥にある何かを見ているような気がした。眼鏡の奥の光が、半分はここに、半分はずっと先の何かに、置かれている。
返事も、頷きも、ある。けれど、いちばん大事な部分が、彼の中ですでに別の場所へ行ってしまっている、そんな気配があった。香織には、なぜか、それが分かった。
寂しい、と思った。同時に、その不器用な真剣さに、ほんの少し、惹かれてもいた。
「今、一緒に読みませんか?」
香織は、自分でも驚くようなことを言った。普段の自分なら、絶対に言わない。でも、なぜか翔太となら、この本を共有してもいいと思った。この重すぎる秘密を、一人で抱えるのが限界だったのかもしれない。
二人は、本を机の上に広げた。肩が触れ合うくらいの距離。翔太の体温が、微かに伝わってくる。温かい。真紀とは違う、人間の温もり。
「この絵、すごいね」 翔太が、水時計の挿絵を指差す。 「江戸時代の水時計。でも、普通の水時計とは違う」 「どこが?」 「ほら、ここ」 翔太の指が、絵の一部を指す。 「水が下から上に流れてる」
確かに、よく見ると水の流れが逆だった。重力に逆らって、上へ上へと昇っていく。 「物理的にあり得ない」 「でも、美しい」 香織が呟く。 「美しい?」 「ええ。とても」 水時計の絵に、香織は魅入られていた。まるで、実物を見たことがあるような既視感。いや、見たことがある。夢の中で。何度も、何度も。
ページをめくっていくと、新聞の切り抜きが挟まっていた。 古い新聞。昭和四十七年の日付。 『地元高校生失踪 野球部エース田中亮介君(18)行方不明に』
香織の心臓が、どくんと跳ねた。 田中亮介。 その名前を、知っている。祖母が時々、寝言で呟く名前。そして、田中という姓は…
「あの…翔太君?」 「なに?」 「田中亮介って…」
翔太の顔が、急に曇った。 「知ってるの?」 「いえ、ただ、田中という名字が同じだから」
翔太は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「僕の大叔父なんだ。祖父の弟。五十年前に、行方不明になった」
翔太の声が、沈んでいく。
「十八歳の誕生日の直後に、忽然と消えた」
香織の血の気が引いた。十八歳。それは、偶然ではない。 「最後に目撃されたのは、女子生徒と一緒に、山に向かう姿」 「女子生徒?」 「名前は分からない。でも、この町の旧家の娘だったらしい」
香織の手が、震え始めた。旧家の娘。それは、間違いなく祖母のことだ。和子と亮介。五十年前の、悲劇の恋人たち。




