第13話 日記は、終わりへ数えていた
四月十五日(日)天気:雨 【儀式まで、あと66日】
また、あの夢を見た。
冷たい水の中に、ゆっくりと沈んでいく夢。手足の感覚がなくなり、体の輪郭が水に溶けていく。息はできないはずなのに、苦しくない。むしろ、満たされている。まるで羊水の中に戻ったような、原初の安らぎ。水は私を拒まない。ただ優しく、どこまでも深く、受け入れてくれる。
朝、目覚めると枕がぐっしょりと濡れていた。寝汗ではない。ひやりとして、ぬめりのある、生臭い水の匂い。シーツにできた染みは、月明かりの下でぼんやりと青く光っていた。まるで、深海の燐光生物がそこに棲みついたかのように。
体がおかしい。
鏡を見ると、肌が以前より白く、透き通っている気がする。腕の内側には、見たことのない青い筋が血管のように浮かび上がっている。血じゃない。もっと冷たい何かが、この中を流れている。指先で触れると、そこだけが氷のように冷たい。
そして、鏡の中の自分の肩越しに、もう一人、誰かが立っているような気がした。白いセーラー服の女。長い、濡れた髪。瞬きをして見直すと、もう、誰もいなかった。けれど、鏡の表面には、その輪郭の形で、薄く水滴が残っていた。まるで、こちら側から覗いている誰かが、息を吹きかけたかのように。
喉が、ひどく渇いていた。冷蔵庫の麦茶を、コップに三杯、立て続けに飲んだ。なのに、飲めば飲むほど喉の奥が砂のように乾いていく。体の表面からは冷たい水が滲み出しているのに、内側は干上がっていくようだった。
紙のように乾いた、母の唇を思い出す。涙さえ流せない、あの乾いた人を。
お姉ちゃんみたいになるのだろうか。あの、瞬きさえ計算されたような姉の美しさに。でも、それは同時に人間じゃなくなることだ。心が、感情が、乾いていくことだ。お姉ちゃんの目は、時々ガラス玉のように見える。笑っていても、その奥は何も映していない。
怖い。
でも、心のどこかで、この変化を待っている自分もいる。水が、私を呼んでいる。夢の中の安らぎが、現実の私を誘惑する。沈んでいけば、楽になれるの?この恐怖も、悲しみも、すべて洗い流してくれるの?
——いや。違う。
書いていて、気づく。私は、水を求めているんじゃない。
正確には、こうだ。私は、水が、怖い。
コップ一杯の水を飲み干すのにも、最近は勇気がいる。シャワーの飛沫が顔にかかると、一瞬、息が止まる。雨の日、傘の内側にこもる湿気に、肌が粟立つ。プールの授業を想像するだけで、心臓が縮む。水が、私を内側から作り変えていくのが分かるから。水に触れるたび、自分が自分でなくなっていくのが、たまらなく怖い。
なのに。
その同じ水を、私は狂おしいほど欲しがっている。喉の渇きじゃない。もっと奥の、魂の渇き。震えるほど恐ろしいのに、それでも、水のそばに行きたくてたまらない。窓を打つ雨を見ていると、いますぐ外へ飛び出して、ずぶ濡れになりたくなる。
怖いものを、こんなに欲しがる自分が、いちばん怖い。
恐れと、渇き。正反対のはずの二つが、私の中でねじれたまま、ひとつになっている。まるで、ずっと昔から、誰かがこの引き裂かれを、私に手渡してきたみたいに。
この町は、今日も雨だった。
その日の学校は、いつもと何も変わらなかった。
二限目の現代文。隣の席の友達が「消しゴム貸して」と小声で言う。昼休み、購買のメロンパンは売り切れていて、香織は仕方なくカップのコーンスープを買った。スプーンですくうと、なぜか、いつもより水っぽい。底のほうに、入れた覚えのない透明な水が、薄く溜まっている。
——気のせいだ。
香織はそれを流しに捨てた。誰にも言えない秘密を抱えたまま、それでも変わらない一日が回っていくことが、ありがたくもあり、ほんの少しだけ、怖くもあった。




