表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/23

第13話 日記は、終わりへ数えていた

四月十五日(日)天気:雨 【儀式まで、あと66日】


また、あの夢を見た。


冷たい水の中に、ゆっくりと沈んでいく夢。手足の感覚がなくなり、体の輪郭が水に溶けていく。息はできないはずなのに、苦しくない。むしろ、満たされている。まるで羊水の中に戻ったような、原初の安らぎ。水は私を拒まない。ただ優しく、どこまでも深く、受け入れてくれる。


朝、目覚めると枕がぐっしょりと濡れていた。寝汗ではない。ひやりとして、ぬめりのある、生臭い水の匂い。シーツにできた染みは、月明かりの下でぼんやりと青く光っていた。まるで、深海の燐光生物がそこに棲みついたかのように。


体がおかしい。


鏡を見ると、肌が以前より白く、透き通っている気がする。腕の内側には、見たことのない青い筋が血管のように浮かび上がっている。血じゃない。もっと冷たい何かが、この中を流れている。指先で触れると、そこだけが氷のように冷たい。


そして、鏡の中の自分の肩越しに、もう一人、誰かが立っているような気がした。白いセーラー服の女。長い、濡れた髪。瞬きをして見直すと、もう、誰もいなかった。けれど、鏡の表面には、その輪郭の形で、薄く水滴が残っていた。まるで、こちら側から覗いている誰かが、息を吹きかけたかのように。


喉が、ひどく渇いていた。冷蔵庫の麦茶を、コップに三杯、立て続けに飲んだ。なのに、飲めば飲むほど喉の奥が砂のように乾いていく。体の表面からは冷たい水が滲み出しているのに、内側は干上がっていくようだった。


紙のように乾いた、母の唇を思い出す。涙さえ流せない、あの乾いた人を。


お姉ちゃんみたいになるのだろうか。あの、瞬きさえ計算されたような姉の美しさに。でも、それは同時に人間じゃなくなることだ。心が、感情が、乾いていくことだ。お姉ちゃんの目は、時々ガラス玉のように見える。笑っていても、その奥は何も映していない。


怖い。


でも、心のどこかで、この変化を待っている自分もいる。水が、私を呼んでいる。夢の中の安らぎが、現実の私を誘惑する。沈んでいけば、楽になれるの?この恐怖も、悲しみも、すべて洗い流してくれるの?


——いや。違う。


書いていて、気づく。私は、水を求めているんじゃない。


正確には、こうだ。私は、水が、怖い。


コップ一杯の水を飲み干すのにも、最近は勇気がいる。シャワーの飛沫が顔にかかると、一瞬、息が止まる。雨の日、傘の内側にこもる湿気に、肌が粟立つ。プールの授業を想像するだけで、心臓が縮む。水が、私を内側から作り変えていくのが分かるから。水に触れるたび、自分が自分でなくなっていくのが、たまらなく怖い。


なのに。


その同じ水を、私は狂おしいほど欲しがっている。喉の渇きじゃない。もっと奥の、魂の渇き。震えるほど恐ろしいのに、それでも、水のそばに行きたくてたまらない。窓を打つ雨を見ていると、いますぐ外へ飛び出して、ずぶ濡れになりたくなる。


怖いものを、こんなに欲しがる自分が、いちばん怖い。


恐れと、渇き。正反対のはずの二つが、私の中でねじれたまま、ひとつになっている。まるで、ずっと昔から、誰かがこの引き裂かれを、私に手渡してきたみたいに。


この町は、今日も雨だった。


その日の学校は、いつもと何も変わらなかった。


二限目の現代文。隣の席の友達が「消しゴム貸して」と小声で言う。昼休み、購買のメロンパンは売り切れていて、香織は仕方なくカップのコーンスープを買った。スプーンですくうと、なぜか、いつもより水っぽい。底のほうに、入れた覚えのない透明な水が、薄く溜まっている。


——気のせいだ。


香織はそれを流しに捨てた。誰にも言えない秘密を抱えたまま、それでも変わらない一日が回っていくことが、ありがたくもあり、ほんの少しだけ、怖くもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ