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雪月花  作者: 湯灯畳
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第九十八夜 想い夜

開業前日。


大岩の鎮座する、九尾の祀られた神社へ向かう。


 


「これを……奉納したいんですが」


 


持参した包みを差し出す。


記憶を頼りに。


かなり苦労して作った"あぶたま"だった。


 


神主は、不思議そうな顔をした。


 


だが。


一度だけ、奥の神殿を振り返り――


 


「……ええ、承りましょう」


 


どこか納得したように、静かに頷いた。


 


拝殿へ向かう。


 


どうか、お見守りください。


 


あの御姿を。


はっきりと思い浮かべながら。


 


二礼二拍手一礼。


 


「柄でもあるまい」と。


あの顔が、はにかんだ気がした。


 


参道を下る。


 


ふと。


社務所の脇に貼られた紙へ、目が留まった。


 


『相響く線、是即ち理の結び也』


 


達筆すぎて、何の標語かもよくわからない。


 


けれど。


なぜか、その言葉だけが胸に残った。


 


 


そして翌日。


 


最初の客は、クラウドファンディング支援者向けのプレオープンだった。


 


二組。


 


その顔を見た瞬間。


しばらく、言葉が出なかった。


 


どこか懐かしい夫婦。


 


笑い方。


声。


目元。


 


名前も。


生きてきた人生も。


まるで別人のはずなのに。


 


どうしても。


思い出してしまう。


 


あの雪の宿を。


 


「どうかしました?」


 


「あ、いえ」


 


慌てて頭を下げる。


 


かなりの大口支援者だったこともあり、緊張は凄まじかった。


 


見よう見まねで炊いた温泉粥。


 


DIYで整えた、小さな露天風呂。


 


何もかも手探り。


ワンオペの、小さな宿。


 


けれど。


 


「……落ち着きますね、ここ」


 


その一言が。


胸に沁みた。


 


 


二日目。


三日目。


 


やはり。


どこか見覚えのあるような人たちが訪れる。


 


賑やかな女子旅。


 


仲間同士の宴会。


 


静かな夫婦旅。


 


誰も。


何も覚えてはいない。


 


白咲村のことも。


雪月花のことも。


 


雪の中で。


笑い合ったことも。


 


泣いたことも。


 


互いに傷つけ合った夜さえ。


 


けれど。


 


理由はなくても。


 


人は時々、


帰りたくなる場所を忘れない。


 


「また来ますね」


 


笑って帰っていく、その背中を見送るたび。


 


ここまで来てよかったと、思えた。


 


 


若いグループ客がいた。


 


最初はずっと、写真を撮っていた。


 


湯気。


囲炉裏。


積もる雪。


 


料理が運ばれるたび、スマホを向ける。


 


「待って、まだ食べないで」


「写真、あとで送って」


 


そんな声も聞こえた。


 


けれど。


 


夜が更ける頃には。


 


誰も、画面を見ていなかった。


 


露天風呂から戻ったあと。


 


縁側で。


ただ黙って、雪を見ていた。


 


帰り際。


 


「……なんか、久しぶりによく寝れました」


 


そう言って。


少し照れくさそうに笑った。


 


 


ある日の夜。


 


予約の入っていた客は、来なかった。


 


山は雪だった。


 


事故かもしれない。


気が変わっただけかもしれない。


 


連絡は、ない。


 


炊き上がった温泉粥の湯気だけが、静かに揺れていた。


 


小さな宿にとって。


一組のキャンセルは、軽くない。


 


それでも。


灯りだけは消さなかった。


 


もし本当に、道に迷っているのなら。


 


そう思ってしまうたび。


雪の夜に消えた、あの背中を思い出す。


 


まだ届かない、あの背中を。


 


 


そうして、季節は巡る。


 


宿は、少しずつ予約が埋まるようになった。


 


告知は最小限。


レビューも増えない。


 


けれど。


一度来た客が、また訪れたり。


あるいは、その口伝で訪れたり。


 


そんな宿になっていた。


 


近くへ住居を建て。


客間を三つへ増やし。


繁忙期には、人を雇えるほどにもなった。


 


少しずつ。


 


ゆき姉の故郷へ、灯が戻っていく。


 


 


宿の裏手。


 


文字の消えた二つの碑。


 


その隣に。


小さな歌碑が、新しく添えられていた。


 


誰も知らない歌。


 


誰にも届かない返歌。


 


それでも。


確かに、そこに刻まれている。


 


 


翼舞う

ゆきの門出に

降る涙

幾の想い夜

とくこともなし


 


 


春の風が吹く。


 


桜が舞う。


 


その奥で。


 


細く、湯けむりが揺れていた。


 


まるで。


誰かの帰りを待つように。


 


――第九十八夜・了

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