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雪月花  作者: 湯灯畳
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最終夜 おかえり

あれからまた、月日が流れ――


宿で癒されていく人々を、見送る日々。


 


経営も、ようやく安定した。


資金繰りに追われることも減り、宿としての評判も、少しずつ根付いてきている。


 


それでも。


 


宿は続いていく。


 


湯の様子を見て。


客を迎えて。


見送って。


 


気づけば、それが当たり前になっていた。


 


なのに。


 


ふとした瞬間、思ってしまう。


 


――いつまで、続けるつもりなんだろう、と。


 


男手一つの小さな宿。


客の評判は悪くない。


それでも時折、「女将さんはいないんですか」と、不思議そうに尋ねられることもあった。


 


そのたびに。


 


胸の奥で、何かが静かに軋む。


 


"遺志を継ぐ"なんて言えば、聞こえはいい。


 


けれど結局。


これはただ、自分が手放せなかっただけなんだと思う。


 


忘れたくなくて。


終わらせたくなくて。


 


あの雪の日々を。


あの宿を。


 


ゆき姉を。


 


でも。


 


もう十分なのかもしれない、とも思い始めていた。


 


この故郷に、灯は戻った。


人の笑顔も戻った。


 


なら。


もうこれ以上、縋り続けるべきではない。


 


この宿を。


この夢を。


ちゃんと継いでくれる誰かに託してしまった方がいいのかもしれない。


 


 


ゆき姉の夢を、穢してしまう前に。


 


 


引継ぎが決まったら。


その人に全部話して。


 


この長い夢を、終わりにしよう。


 


それでいい。


 


 


その日。


宿には珍しく、予約が入っていなかった。


 


桜が咲いたあとに降る、名残雪。


花冷えのせいかもしれない。


 


久しぶりの静かな夜。


 


そんな折。


電話が鳴った。


 


「すみません、突然なんですが」


 


若い女性の声だった。


 


「今日、これから一名で宿泊できますか?」


 


「ああ、大丈夫ですよ」


 


答えながら、帳場の外を見る。


雪。


静かな山道。


 


「今日は、たまたま空いてますので」


 


たまたま。


 


自分でも、妙な言い方だと思った。


 


「よかった……助かりました」


 


電話の向こうは、心底ほっとしたように笑った。


 


 


それから程なくして。


 


「すみません、先ほどお電話した者ですが……」


 


玄関に響いた、その声。


 


心臓が止まりそうになった。


 


忘れられるはずのない声。


 


恐る恐る、顔を上げる。


 


そこに立っていたのは――


 


「ゆ……」


 


思わず、その名を呼びそうになる。


 


けれど。


寸前で、飲み込んだ。


 


――話してしまったら、そのときは。


 


「……いらっしゃいませ」


 


少し遅れて。


ようやく言葉が出る。


 


「ようこそ、お越しくださいました」


 


「すみません、急に無理なお願いを」


 


どこか申し訳なさそうに笑いながら、彼女は玄関を上がった。


 


宿帳へ、名前を書く。


 


幸坂結季。


 


その文字を見た瞬間。


 


胸の奥で、何かが静かにほどけた。


 


――そうか。


 


自由になれたんだ。


やっと。


 


 


部屋へ案内する間も。


 


どうしても、落ち着かなかった。


 


声。


仕草。


笑い方。


 


そのすべてが。


あまりにも。


 


思い出してしまう。


 


あの雪の宿を。


 


あの囲炉裏を。


 


あの時間を。


 


もう、この鼓動の理由も。


鬼のせいにはできない。


 


だからこそ。


 


ちゃんとしなければ。


 


ここで間違えたら。


壊してしまう。


何もかも。


 


 


翌朝。


 


炊きあがった粥の湯気が、静かに立ち上る。


 


せめて、これだけは。


 


「……いい匂い」


 


その顔が、少し綻ぶ。


 


一口。


 


そして。


箸が止まった。


 


「……これ」


 


思わず、息を呑む。


 


「……お口に、合いましたか?」


 


客は、しばらく黙ったあと。


 


「……懐かしい味ですね」


 


そう、小さく笑った。


 


胸が、痛いほど高鳴った。


 


呼びたい。


 


たった一言。


 


"ゆき姉"と。


 


 


 


チェックアウト。


 


「お世話になりました」


 


「またのお越しを、お待ちしております」


 


いつも通り。


 


いつも通りに、見送る。


 


彼女は振り返り、何度も頭を下げる。


 


――待って。


 


――置いて行かないで。


 


いや。


 


違う。


 


あの雪の坂道。


 


ゆき姉はただ、静かに見送っていた。


 


どんなに辛くとも。


 


だから。


 


最後まで、そういう姿勢でいなければ。


 


 


光の中へ消えていく背中。


 


まるでスローモーションのように。


 


ふと、思い出す。


 


懐へ触れた指先が、止まる。


 


笄。


 


ずっと。


手放せなかった。


 


忘れたくなくて。


消えたくなくて。


 


――待って。


――ゆき姉。


 


追いかける。


 


でも、そこには。


 


満開の桜。


雪のあとの静寂。


 


ただ、それだけ。


 


いつもの景色。


 


 


雪女は、一度見失ったら、もう二度と。


 


 


その言葉だけが、頭の中を。


 


 


ふと。


 


香の匂いがした。


 


覚えている。


 


安眠香。


 


どこから?


 


宿の裏手。


 


導かれるように歩く。


 


 


文字の消えた慰霊の碑。


 


その前へ。


小さな桜の枝と、香が静かに手向けられていた。


 


そして。


 


幾の想い夜

とくこともなし


 


歌碑の前に、佇む姿。


 


「あの……」


 


声を掛ける。


 


彼女が、振り返る。


 


その目を見た瞬間。


また、胸が締め付けられる。


 


「これを……」


 


おもむろに、笄を差し出す。


 


「……?」


 


「これは」


 


「あなたに持っていてほしい」


 


「どうしても」


 


それだけ。


 


彼女は、しばらく笄を見つめ。


 


「……綺麗ですね」


 


やがて、そっと受け取った。


 


そして。


少し戸惑いながら、髪へ差す。


 


「……こう、ですか?」


 


その姿は。


 


あまりにも。


 


涙がこぼれそうになる。


 


でも。


見送るまでは。


 


ちゃんとしていないと。


 


「でも、どうして私に?」


 


「……すみません」


 


「でもこれは」


 


「あなたのためにあったものだから」


 


彼女は、しばらく黙っていた。


 


まるで。


何かを、思い出しかけるみたいに。


 


けれど結局。


小さく笑って。


 


「……変な人ですね」


 


そう言いながら。


笄へ、そっと触れる。


 


でも。


これでいいんだと思った。


 


押しつけがましいのは承知の上で。


 


それでも。


 


これでようやく。


 


 


 


遠ざかっていく、背中。


 


最後に。


いい夢を見せてくれて。


 


本当に。


ありがとう。


 


涙が止まらなかった。


 


でも。


 


これでよかったんだ。


 


 


さよなら――


 


ゆき姉。


 


 


 


バスの窓際。


 


彼女は、ぼんやりと外を眺めていた。


 


春の山並み。


流れていく桜。


 


その髪に差された笄が。


 


ふと、淡く光を帯びる。


 


まるで、あわ雪みたいに。


 


音もなく。


静かに溶けるように消えていった。


 


そして。


 


蘇る。


 


雪。


湯けむり。


囲炉裏。


 


遠い春。


 


忘れられるはずだった、すべての記憶。


 


小さな庵の縁側。


 


暖かな日差し。


 


ただ笑い合う、二人の幼子。


 


一筋の涙が、頬を伝う。


 


想いを置いた、初めての歌。


 


旅人の

袖にほころぶ

春の気を

いつかは共に

遠くたづねむ


 


 


「……はる坊」


 


 


――雪月花・完

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