第九十七夜 遺志
「え? あそこでですか?」
柱時計の音が、静かな部屋に響く。
古びた木造家屋。
どこか懐かしい匂い。
膝の上では、三毛猫が丸くなっていた。
土地の持ち主は、湯呑みを片手に目を丸くする。
「またどうして、あんな辺鄙な場所で」
「……それは」
喉まで、言葉が出かかる。
雪の宿。
温泉粥。
あの笑顔。
全部、覚えている。
なのに。
口にしようとした瞬間、
胸の奥が、ひどく軋んだ。
――話してはならない。
あの場所のことを。
あの人のことを。
話してしまったら、そのときは――
「すみません……」
「うまく、説明できなくて」
ようやく、それだけを絞り出す。
地主は、そんな様子をしばらく黙って見つめていた。
「んー……」
やがて、小さく息を吐く。
「……まあ、わかりました」
穏やかな笑み。
「実は私もね」
「あの源泉は、ずっともったいないと思ってたんですよ」
その瞬間。
胸の奥で、何かがほどけた。
「ありがとうございます……!」
思わず、深く頭を下げる。
地主は苦笑しながら、猫の背を撫でた。
「とはいえ、簡単じゃありませんよ?」
「あそこ、昔の湯治場の名残みたいなものはありますけど」
「今はほとんど山ですからねぇ」
林道。
水道。
電気。
その他インフラに、行政の許可も。
現実的な問題はいくらでもあった。
それでも。
「やります」
迷いは、なかった。
地主はその目を見て。
どこか面白そうに、笑った。
「……なるほどねぇ」
「なら、少し協力しましょうか」
一度、自宅へ戻る。
まずは、話をしなければならなかった。
道場へ向かう。
長く世話になった場所。
休みをもらった礼を言い、
門下生たちへ土産を配る。
妹には、少し特別な土産を。
そして。
師範の部屋。
「師範」
「突然で恐縮ですが、実はお願いが……」
道場を辞めたい。
やるべきことができた。
それだけだった。
理由を話そうとするたび。
喉の奥で、言葉が止まる。
雪の匂い。
湯気。
桜。
脳裏に浮かぶすべてが、
話せばそれで終わってしまうものばかり。
だから。
何も言えなかった。
跡目の話までもらっていたのに。
ただ、申し訳なかった。
師範は、しばらく黙っていた。
そして。
「……そうか」
静かに頷いた。
「残念だが」
「承知した」
そして。
静かに笑った。
「頑張れよ」
その言葉だけで。
十分だった。
そこから先は、夢なんかじゃなかった。
現実だった。
地主と何度も話し合い。
業者を探し。
役所へ通い。
許可申請を書き。
融資計画を作り。
周囲のざわつきを他所に、
慣れない言葉に頭を抱えながら、
何度も修正を繰り返した。
銀行の反応も厳しかった。
「あの山奥でですか?」
「この規模では、採算性が……」
当然だった。
自分でも、無茶だと思う。
それでも。
どうしても。
あの場所へ、灯を戻したかった。
クラウドファンディングも立ち上げた。
正直、期待はしていなかった。
だが。
少しずつ。
本当に少しずつ。
支援が集まり始める。
『あの場所の景色、何故か懐かしい』
『昔、夢で見た気がする』
『完成したら、絶対行きたい』
中には。
『ずっと待っていました』
そんな一文だけを残した支援者もいた。
知らない名前ばかり。
けれど。
何故だか、胸が熱くなった。
それから、一年後の春。
完成間近となったその姿を前に、
一人、立ち尽くす。
木の香り。
新しい畳。
湯の匂い。
そして。
風に揺れる、満開の桜。
玄関に掲げられた看板。
雪月花。
ゆき姉の遺志を継ぐ。
この湯の物語の、誰も知らない三代目。
故郷へ。
もう一度、
人々の笑顔を咲かせるために。
それは、古民家の古材を融通してもらった、小さな小さな宿。
部屋は二つ。
本当は三つ作ったが、
まずはひとつを住み込み用とした。
最初は、おそらく一人で回すことになる。
しかしいずれは――
ゆき姉のように。
その背中を。
遠い草むらの影から。
猫と。
兎と。
猿が。
静かに見つめていた。
やがて。
どこか満足そうに、
猫が歩き出す。
猿もまた、
森の奥へ消えていく。
そして。
最後まで振り返っていた兎も。
小さく踵を返し。
春の木漏れ日の中へ、
静かに消えていった。
――後の話。
実はあの土地には、
過去、何度も買い手や開発の話が来ていたらしい。
だが。
地主は、一度も首を縦に振らなかったという。
では何故、
突然現れた青年へ土地を預けたのか。
そう問われた時。
彼は、湯呑みを片手に笑った。
「何となくねぇ」
膝の猫が、小さくあくびをする。
「初めて会った気が、しなかったんですよ」
――第九十七夜・了




