第九十一夜 爪痕
あれからすぐに――
あらゆる手を尽くした。
護符。
薬。
祓い。
綾乃の知る限りの、すべて。
だが。
それでも――
届かない。
日ごとに、綾乃の体は変わっていった。
熱に浮かされるように。
ときに、妙に静かに。
ときに、何かから逃げるように。
「……大丈夫」
その言葉だけが、
少しずつ、輪郭を失っていく。
――外では。
「あの人、祓い師なんだってさ」
「祓い師? ああ、そういう類の」
「でも、なんか変な悲鳴が聞こえたって話だよ」
「あの金持ちの家だろ」
「……やっぱり、そういうの絡んでるのかね」
囁きは、まだ"噂"の形だった。
確かめようもないまま、空気に溶けている。
「金、相当出してたらしいよ」
「そりゃ、普通じゃないわな」
疑いは、ゆっくりと沈殿していく。
だが――
ある日を境に、それは"変わった"。
「あの祓い師、詐欺だったらしいぞ」
「妖だの何だの、適当言って金取ってたってさ」
「最初から胡散臭かったんだよ」
まるで、最初からそうだったかのように。
語り口が揃っていく。
誰かが、話を"整えた"気配だけが残る。
――数日。
綾乃は、もう起き上がれなかった。
粥をひと口含み、
そのまま、咳き込む。
鮮血が、混じる。
「……っ」
息が、薄い。
男は、言葉を失ったまま立っている。
外では。
「早く出てってくれないかな」
笑いにも似た声が、壁を叩く。
だが、届かないふりをするしかない。
それでも。
綾乃は、何も言わなかった。
ただ――
「……ごめん」
かすれた声が、落ちる。
何に対してかは、もう分からない。
しばらく、沈黙が続いた。
息の音だけが、部屋に残る。
やがて――
その変化は、静かに始まった。
もはや、人の姿とは言えなかった。
毒だけではない。
手負いの妖が、最期の依り代として選んだ肉体。
それは"治す"対象ではなく、
ただ侵されていく器でしかなかった。
皮膚の下で、何かが蠢く。
呼吸に合わせて、形がずれていく。
綾乃は、笑おうとした。
だが、口元だけが歪む。
目は――もう、合っていない。
「……なあ」
男が、呼ぶ。
返事はない。
指先が、畳を掻く。
黒く、伸びている。
爪ではない。
もう、人のものではない。
びくり、と。
一瞬だけ、意識が戻る。
その手が、ふと伸びて――
男の頬に、触れた。
「……っ」
苦しげに息を吐いたあと、
その指がわずかに力を持つ。
――引いた。
男の頬に、細い線が走る。
血が滲む。
「……怖いよ」
縋るような、震える声。
だがその瞳は、もう何も映していなかった。
やがて。
音が、途切れた。
爪は、まだ頬に残っている。
確かに、そこに触れたという証として。
男は、動けなかった。
呼びかけることもできず、
ただ見ているだけ。
外では、まだ人の声がしている。
いつも通りの、どうでもいい笑い声。
――第九十一夜・了




