第九十夜 歯車
突然降り始めた雨。
あばら家の軒下で、雨宿りの二人。
「……」
「……」
無言。
雷鳴。
「……不吉だな」
男が、ぽつり。
「……」
沈黙。
白装束が口を開く。
「……あれから」
一拍。
「斬ったのか?」
男は、小さく息を吐く。
「……」
「……斬ってない」
「……だから、何だ」
白装束は、わずかに視線を落とす。
「……」
「斬るか? これからも」
男が返す。
「……さあな」
一拍。
「だが」
「手入れはする」
その言葉に、白装束がため息を吐く。
「……そうか」
やがて、雨が小降りになる。
「……ではな」
男は、雨が止むのを待たない。
「……もう行くのか」
「ああ」
「……」
見れば、空の向こうに、虹。
「……」
眺める二人。
「……どうやら」
「不吉ばかりでもないか」
去り際に、男がぽつり。
「……待って」
白装束が呼び止める。
「……」
「何だ」
立ち止まる男。
「……その刀」
「少し、貸してくれないか?」
「刀?」
「次の依頼」
「刀があると、助かる……」
「この借りは、必ず返すから」
「……」
男は、何も言わず刀を差し出す。
「……え?」
きょとんとする白装束。
「……ん?」
「刀だ」
「持って行け」
「……いや」
「……」
「……?」
間。
「……刀は、魂でしょ」
「……」
「そんな簡単に差し出すな」
「……?」
面食らう、男。
少し声が下がる白装束。
「……体、空いてないのか?」
「……」
「……いや」
「空いてるが」
その返事に、目を逸らしながら。
「……なら」
「つきあえ」
あの日の恥を晒したことが、すべての始まり。
この人にはもう――
逆らえなかった。
刀は、取り憑いた妖を"患者"から切り離す際に使える、と。
清めた刀で、介錯のようにその根元へ一閃。
人と妖とのあいだに――ほんの一瞬、境が生まれる。
その刹那を逃さず、祓う。
それが、この人――
綾乃のやり方だった。
ただ祓うより、何倍も確実だと。
はじめは、とにかくわけがわからなかった。
ただ言われるままに、刀を振るう。
手応えは、ない。
だが。
患者は、確かに救われていた。
あれから一年。
結局成り行きで、二人のまま。
綾乃は、祓い師として抜群の腕を持っていた。
だが――公にはできなかった。
妖をも殺さぬ祓い。
その信念は、同業の祓い師たちから異端と見なされていた。
人も妖も隔てなく、
業は巡り、いずれ己に還る――
その理は、美しくもあり。
同時に、あまりにも危うかった。
その上――
利も削ぐ、と。
「いつ死んでもおかしくない」
綾乃は、よくそう言った。
「だから、本当は――誰も巻き込みたくない」
それなのに。
どうしても。
「次の依頼は大物だぞ」
あの日。
さる富豪からの依頼。
綾乃は、いつになく軽い足取りだった。
祓い座の中央。
座らされる、恰幅の良い富豪。
「……動かないで」
「すぐ終わる」
静かな声。
呼吸を合わせる。
場を鎮める。
やがて――
富豪の背後に、影が滲む。
輪郭を持たぬものが、
ゆっくりと、人の形を侵し始める。
「……そのまま」
綾乃の指が、わずかに動く。
印。
境が、引かれる。
男が、わずかに踏み込む。
「今だ」
一閃。
断つ。
ずるり、と。
何かが、富豪から剥がれ落ちる。
――成功しかけていた。
あと一手で、終わる。
その、直前。
「だめだ、鬱陶しい!」
「まだ終わらんのか!」
富豪が、叫んだ。
肩が動く。
腕が、振り払われる。
「動くな――!」
綾乃の声。
だが、遅い。
引き剥がされかけていた"それ"が、
形を歪める。
標的を、取り戻す。
富豪へ――
喰らいつこうとして。
その瞬間。
綾乃が、割って入った。
「……っ!」
腕を差し出す。
牙が、深く食い込む。
それでも。
印は、崩さない。
押さえ込む。
戻す。
祓う。
――届く。
そう見えた。
「ひぃ!離せ!触るな!」
富豪が、腕を振り払う。
均衡が、砕ける。
「綾乃!」
男の太刀が、振り下ろされる。
牙を残し、胴が落ちる。
だが。
斬り離された"それ"は、
死ななかった。
喰らい付いた首だけが、
血を伝い――
綾乃の腕へ、
潜り込む。
「……あ」
ほんの、一瞬。
綾乃の顔から、
すべての計算が消えた。
「ひぃぃ!」
「ワシは知らん!」
富豪は、逃げた。
その場に残ったのは、
噛み跡と。
取り返しのつかない、静寂だけだった。
その日を境に、
地獄は、静かに始まった。
――第九十夜・了




