第八十八夜 見覚え
無骨な姿。
鋭い眼光。
そして、顔に刻まれた疵。
忘れるはずがない。
「お前は……」
思わず、ふらつく足で身構える。
「……」
しかし。
しばし見合った末――
「……通してくれ」
疵の男は、それだけだった。
「湯に、行きたい」
低く、ただそれだけを告げると。
そのまま脇をすり抜け、静かに去っていく。
あのとき、刃を貫かれた胸の奥が――
また、鈍く痛んだ気がした。
そこへ。
「……」
「……はる坊?」
後ろから、かすれた声。
振り返る。
ゆき姉が、目を覚ましていた。
「ゆき姉!」
込み上げる安堵。
けれど、その直後。
不安が胸を締めつける。
「……大丈夫……なの?」
「……うん」
小さく微笑んで。
「大丈夫」
「もう、大丈夫」
……違う。
視線が、自然と落ちる。
白い手。
そこに痛々しく残る、黒い跡。
指先は、まだ微かにひび割れていた。
「……ゆき姉」
思わず、その肩に触れる。
……冷たい。
そして。
細い。
痩せている。
見た目以上に。
毒のせい……だけじゃない。
春が近いとは――
つまり。
ゆき姉の……
静寂に包まれた、薄灯りの中。
込み上げる想いのまま。
その細く、冷たい身体を――
そっと、抱き寄せずにはいられなかった。
翌朝。
「おはようございます」
ゆき姉は、いつものように微笑んでいた。
「……女将さん!」
枕兎が駆け寄る。
「大丈夫なんですか?」
「ええ、お陰様で」
少しだけ困ったように笑って。
「……心配かけて、ごめんなさい」
けれど。
その笑顔は、どこか弱い。
それを見て。
「……無理は禁物ですぜ」
酒猿が、腕を組む。
「ワガハイらに任せるですニャ」
湯猫も、胸を張る。
皆、明るく振る舞ってはいるが――
その目の奥には、隠しきれない不安が揺れていた。
袖口に残る、黒い影。
誰一人、それを見逃してはいなかった。
昼過ぎ。
玄関先の雪かき。
病み上がりの身体でも容易にこなせるほどに、
雪は、もう厚みを失っていた。
夕方。
まだ、感覚の戻りきらないゆき姉。
廊下の角。
不意に姿を現した疵の男とぶつかり――
その場に、力なく倒れ込む。
「……ッ」
「……ごめんなさい」
咄嗟に謝りながら、見上げた先。
そこにある、男の顔。
――思い出す。
あのときの目。
刃を向けられた、あの瞬間。
男は、静かに手を差し伸べる。
――重なる。
あのときの目。
人ならざるものを、確信したあの視線。
そして、その向こうに。
どこか――
大切な人の、影。
ゆき姉は、思わず目を逸らした。
その手を借りることなく、
どうにか自力で立ち上がる。
襟を正しながら、
気まずそうに、小さく俯く。
「すみません、お見苦しいところを……」
深く、礼をする。
そのとき。
髪に挿した笄が、ふと光を受けた。
銀のきらめき。
刃にも似た、その細い光を。
男は、ただ静かに見つめていた。
夜。
男は、眠れずにいた。
思い出したくない記憶。
けれど。
思い出さなければ、きっと。
このまま――
ずっと。
雪に閉ざされたまま。
それは、煙のような存在だった。
刀が、通じない。
顔が崩れ。
目を見開き。
牙を剥く。
浸食されていく感覚。
思わず、声が漏れた。
悲鳴にも似た――
そして。
救われた。
間一髪。
情けない。
生涯の恥。
だが。
その横顔は。
一切、それに触れなかった。
ただ、淡々と。
毒を癒していく。
こんな醜態を晒したというのに。
まるで、何も見なかったかのように。
気にも留めず。
薬は、甘かった。
苦いばかりじゃない、と。
いたずらっぽく笑って。
いつも、一歩先に咲くような。
あの笑顔。
敵わない――
それなのに。
あの日。
「……怖いよ」
頬に、爪が食い込む。
鮮血が、滴る。
綾乃――
目が覚める。
暴れる鼓動。
張り裂けそうに軋む胸。
全身から噴き出す汗。
「……そうだ」
「俺は、まだ――」
夜は明けていく。
逃れられぬ朝が、来る。
――第八十八夜・了




