第八十七夜 疵
「……」
男は、無言で玄関先に立っていた。
顔に疵のある、無骨な男。
「いらっしゃいませ」
動けない女将に代わり、枕兎が出迎える。
まだ館内には、痛々しい傷跡が残っていた。
「すみません、まだ少しこんな状態でして……」
「行き届かないこともあるかもしれませんが」
「……」
男はしばし宿を見回し、
やがて、短く言った。
「構わん」
異様な気配と、口数の少なさを除けば、
それ以外に特別なことはない。
ただの客。
そう思おうとしても、
どこか肌が粟立つ。
枕兎は二人の休む部屋からは敢えて離し、
奥の客間へと案内した。
男は、まるで気配そのものを消すように、
静かにそこへ収まった。
酒猿は厨房へ入り、夕餉の支度。
湯猫は湯殿へ向かい、湯を調える。
枕兎と九尾は、
眠る二人のそばに残っていた。
「なんだか、あのお客さん……」
兎が、ぽつりと呟く。
「怖い気がします……」
眠る女将へ、視線を落とす。
「女将さんが起きてたら、
たぶん、違ったんでしょうけど……」
九尾が、小さくため息をついた。
「……そうか」
「お前も、そう思うか」
しばし沈黙。
やがて九尾は、静かに笑う。
「仕方あるまい」
「もし、あやつらが目覚めぬまま
何か起これば――」
「その時は、わらわもひと肌脱ぐ」
金の瞳が、細くなる。
「礼は……あぶたまででよいぞ」
その言葉だけが、
妙に心強く、重く残った。
湯あがり処。
浴衣姿で、湯ざましをしている男。
そこへ、湯猫が
茶色い瓶を差し出した。
「どうぞ、ですニャ」
「……」
男は瓶を見る。
「これは?」
「サービスですにゃ。
甘くて、美味しいですニャ」
しばらく無言で見つめたあと、
男はそれを一息に飲み干した。
「……」
「……酒とも違うな」
「薬、か」
鋭い目が向く。
湯猫は、にゃは、と笑った。
「……まあ、そんなところですニャ」
少しの沈黙。
それから、男の身体を
改めて見上げる。
「いやぁ〜、それにしても」
「すごい筋肉ですニャ〜」
「……」
「特に、その左腕」
男の視線が、わずかに落ちる。
「……」
「ケンカ、お強そうですニャ」
男は、遠くを見るように
瓶を見つめた。
小さく、息を吐く。
「……強くなど」
「……」
「……だが」
「この湯の匂い……」
「それに、この薬……」
一拍。
(薬は、苦いばかりじゃない……)
かすかに、何かが揺れる。
「……思い出す、気がする」
そう言って、
男は頬の疵に手を当てた。
夜。
料理を、静かに口へ運ぶ男。
「……どうです、
お口に合いましたか?」
「……ああ」
一言。
それだけなのに、
酒猿は妙に肩が重い。
「参ったなこりゃ……」
裏へ戻り、頭を掻く。
「あんなの、
あっしじゃとても太刀打ちなんざ……」
酌をする勇気すら出なかった。
「失礼します」
枕兎が布団を敷き、
安眠香を焚く。
「よく眠れますから」
「……そうか」
男は一瞥しただけで、
また窓の外へ目を向けた。
襖を閉めながらも、
その背中から目が離せない。
宿に、
不安ばかりが積もっていく。
早朝。
男は、露天風呂にいた。
湯ざましをしながら、
しばし神木に手を当てる。
「……俺は」
「何を失って、
ここに来た……」
神木は、ただ沈黙していた。
朝餉。
女将が動けぬため、
粥ではなく白米の膳。
「夕べは、
よく眠れやしたか」
「ああ……」
静かに箸を進めながら、
ふと。
「朝湯も、よかった」
ぽつり。
酒猿は、
少し驚いたように笑った。
「そうですか。
ありがとうございやす」
昨夜より、
ほんの少しだけ話しやすい。
それだけで、
肩の力が抜ける。
それでも男は、
発つ気配を見せなかった。
部屋から外を眺め、
ただ、そこにいる。
「……」
「……女将さん」
枕兎が、
祈るように呟く。
昼過ぎ。
男は中庭に立っていた。
慰霊。
そして、句碑。
夢と、いつはる――
ただ、じっと。
佇んでいる。
思い出せない。
いや。
思い出したくないのかもしれない。
わからない。
ただ、
頬の疵だけが疼く。
目を開けると、
ぼんやりと天井が見えた。
夕方のような薄暗さ。
「……姉」
うわ言のように、
声が漏れる。
九尾の耳が、
ぴくりと動いた。
「……目が覚めたか」
「……」
「……ゆき姉は?」
「おるぞ、隣に」
「……まだ目覚めはせぬが」
「……」
顔だけ、横を向ける。
そこにあるのは、
ゆき姉の寝顔。
静かに、
穏やかな寝息。
「……」
それを見て、
ようやく安心したように。
再び、眠りに落ちる。
九尾はその横顔を見つめ、
小さく、呟いた。
「……毒はもう、
消えきることはない、か」
夕餉。
酒猿は思い切って、
疵の男へ酒を勧めた。
秘蔵の酒。
淡雪神恵。
男は盃を受け取り、
静かに口をつける。
「……」
「……美味い」
その一言だけで、
また少し、空気が和らぐ。
「……しかし、酒は」
「このくらいで、
ちょうどいい」
最初の一杯を飲み干すと、
男は盃を静かに伏せた。
下戸ではない。
だが、
どこか妙だった。
深夜。
ふと、目が覚める。
「……」
布団から身を起こす。
まだ、かなりふらつく。
隣に眠る、
ゆき姉を見る。
「……ゆき姉」
九尾は、
柱にもたれて休んでいた。
起こさぬよう、
静かに部屋を出る。
廊下へ。
どれほど眠っていたのか、
もうよくわからない。
ふらつく足で、
数歩。
少しずつ、
身体を慣らすように歩く。
静まり返った宿。
その先。
不意に――
疵の男が、
そこに立っていた。
――第八十七夜・了




