第八十四夜 夜明け
厚い雲間から、わずかに月が差す。
化け物の姿は、もうない。
残っているのは――
白い、ひとつの影だけ。
「こやつ……」
九尾が、低く呟く。
「祟りもろとも、救いよったのか……」
「女将さん!」
駆け寄る足音。
「……女将さん!」
返事は、ない。
「どうすれば……」
揺れる声。
誰も、手を出せない。
――そのとき。
「皆、聞くのじゃ」
九尾の声が、場を断ち切る。
「……よいか」
一瞬の、間。
「こたびのこれは――本来、あるはずのなきこと」
「理の外じゃ」
空気が、張り詰める。
「ゆえに、肝に銘じよ」
「ここでのことは、決して人に話してはならぬ」
「もし話してしまったら、そのときは……」
わずかに、声が沈む。
「世に、未曽有の災禍が放たれる」
静寂。
「……現世には、境界の記憶はあってはならぬもの」
「言霊を介せば――あるべき理に呑まれ、記憶は消える、と……」
「それだけならば、まだよいのじゃが」
一拍。
「こたびのこれは――」
「救いの消失により祟りが行き場を失うこととなる」
さらに、わずかに間を置く。
「……その増幅された瘴気が放たれれば、世がどうなるか」
「もはや、わらわにも読めぬ」
沈黙。
「よいな」
「わらわも含め、じゃ」
「誰一人、現世で語ることは許されぬと知れ」
意味は、よくわからない。
ただ――
戒めの声だけが、刺さる。
場の空気が、一瞬で凍りついた。
「う……」
小さな、声。
女将が、目を開ける。
「女将さん!」
視線が、ゆっくりと天をなぞる。
焦点が合わないまま――
「……お客様」
かすかに、唇が動く。
「無事に……帰られました、ね」
笑う。
――柔らかい。
だが。
どこか、遠い。
ゆっくりと、身を起こす。
周囲を見渡す。
壊れた宿。
散った瓦礫。
湯の途切れた露天。
「……」
わずかに、息が揺れる。
「また……壊してしまいましたね」
ぽつり、と。
「皆の、想いを」
「……ごめんなさい」
その声は、静かすぎた。
「……女将さん」
呼びかけに、わずかに遅れて視線が向く。
その胸元。
爪の跡が、残っている。
「その傷……」
「ああ……」
女将は、視線を落とす。
「私は、大丈夫です」
自然な口調。
――だが。
痛みを確かめる様子が、ない。
「それよりも」
視線が、こちらへ移る。
「その腕を……」
ようやく気づく。
自分の両腕。
右は歪み、力が入らない。
左は――焼けている。
「……っ」
遅れて、痛みが来る。
「救急箱、持ってきました」
枕兎が、駆け寄る。
「でも……その……」
視線が揺れる。
胸の傷と、腕の傷の間で。
「これで……いいのか……」
小さく、呟く。
それでも。
手は止めない。
布を当てる。
薬を塗る。
包帯を巻く。
ぎこちない。
だが、必死だ。
「……すいません」
思わず、漏れる。
「さっきは……その……」
「自分でも、何をしてるのか……」
言葉が、続かない。
女将が、こちらを見る。
「……いえ」
静かに。
「大丈夫ですから」
その言葉だけが、やけに綺麗に落ちる。
夜が、少しずつ薄れていく。
重い曇天が、淡くほどけていく。
何かが、終わったような。
――そんな、朝だった。
――第八十四夜・了




