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雪月花  作者: 湯灯畳
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第八十三夜 餓鬼道

これは、とっておきの秘薬。


人間の願いを引き出し、すべて叶える――


ここぞというときのために、と。


師より最期に渡された、一服。


取っておきだった。


最後はこれが……


女将さんへの切り札だったのに――


 


蛇の刺さる神木の内側から、赤い光が滲み出す。


じわり、じわりと。


夜を侵すように。


 


「……ぐっ」


 


化け物の身体が、強張る。


その瞳の奥。


何かが、弾けた。


――映る。


 


あの日。


鬱屈した苛立ちのままに。


誰にも見られぬよう、呪い札と五寸釘を神木へ打ち付けた。


やけに大きく響く音。


 


そして――


 


その釘に、引き裂かれる。


崩れる爺ちゃんの身体。


血に濡れる神木。


 


「あ……」

「あぁあ……」


 


声が、崩れる。


同時に。


毒が逆流する。


 


内側から、侵す。


止まらない。


濃くなる。巡る。さらに濃くなる。


 


「祟り、じゃな」

九尾の声。


「哀れな……」


 


――それは、小春日和のキャンバス。


某有名薬科大の卒業を控えた頃。

俺は、ある人に恋をしていた。


それはまるで、春風のような人。


 


出逢いは研究室だった。


白衣の袖を少しだけ捲る癖。

試薬瓶を持つ指先は細く、迷いがない。


その横顔を見ているだけで、

自分が何者かになれる気がした。


 


「それ、濃度違うよ」


 


初めてかけられた言葉。

覗き込まれ、距離が近づく。


 


「……あ、すみません」

「謝らなくていいよ。慣れだから」


 


笑う。


やわらかくて、あたたかい笑い方。


 


――この人に、認められたい。


 


それだけで、よかったはずだった。


 


やがて研究は進む。


"感情の安定化"。

ストレス応答を抑える新規化合物。


 


理想的だった。

誰かを救える。


 


――違う。


 


本当は。


 


"この人に、頼られたかった"。


 


 


「最近、忙しそうですね」


 


先輩は少し疲れた顔で笑った。


「まあね。発表前だから」


 


その目の下の影を見て。


 


――ここだ、と。


 


 


「これ……試してみませんか」


 


差し出した未承認の試作。


自分は使っている、と告げる。


 


嘘ではなかった。


自分は平気だった。


 


だから――正しいと思った。


 


 


「……ありがと。じゃあ、少しだけ」


 


その表情を、俺は一生忘れられない。


 


 


三日目。


先輩は倒れた。


 


痙攣。

乱れる呼吸。

焦点の合わない瞳。


 


「せ、先輩……!」


 


伸ばされた手が、白衣を掴む。


 


「……どう、して」


 


責めるでもなく。


ただ、縋るように。


 


「これ……なに……」


 


違う。


そんなはずじゃない。


 


助けたかっただけで。


 


 


「……たすけて」


 


 


――終わった。


 


搬送。処置。間に合わない。


死因不明。原因不明。


 


残ったのは――


俺の差し出したものだけ。


 


 


その後は曖昧だ。


取り調べ。証言。否認。崩壊。


判決。収監。


 


だが――終わらない。


 


夜になると、見る。


 


白衣を掴む手。


「たすけて」という声。


 


何度も。


何度も。


 


 


出所後。


社会はなかった。


 


残ったのは、"あの人"だけ。


 


 


死のうとした。


同じものを飲めば終われる。


 


だが――死ねない。


 


吐き出され、痙攣し、止まる。


生きる。


 


何度も。


何度も。


 


そのたびに浮かぶ。


 


「たすけて」


 


 


気づけば、五十を過ぎていた。


 


白い壁。消毒液の匂い。


何もない天井。


 


ただ一つ。


春風のような人だけが、消えない。


 


 


――そして。


 


終わらない。


 


戦国。


血の中で出逢う姫。


同じ笑み。


同じ結末。


 


異国。


理の違う世界。


それでも――


 


「これで、楽になる」


 


差し出す手は、同じ。


 


 


掴まれる。


 


「……どうして」


 


 


無数の世界。


無数の出逢い。


 


すべてで。


同じ目。


同じ声。


 


「たすけて」


 


 


違う。


今度は違うはずだ。


 


だが。


 


一度も、選ばれなかった。


 


最初から――


そんな物語ではなかった。


 


それでも。


 


手だけは、伸び続ける。


 


 


「餓鬼道……か」

九尾が目を細める。


 


やがて。


 


形が崩れ始める。


 


粘土のように、どろりと。


 


 


その目の奥で、まだ見ていた。


 


春風のような人。


 


笑わない。


振り向かない。


 


何度も壊し、棄てられ、届かない。


 


そして諦めるたび、見せつけられ続ける。


 


どの世界でも。

どの人生でも。


 


――もう、微笑まない。


 


 


「……女将、さん」

「助け……」


 


 


そのとき。


 


そこに、いた。


 


女将が。


 


静かに、手を差し出す。


 


幽花。


同じ微笑み。


 


違うのは――


拒まないことだけ。


 


 


手が、震える。


 


伸びる。


 


――止まる。


 


 


思い出す。


 


何度も。何度も。


同じように手を伸ばし、


同じように壊してきたことを。


 


 


「……ああ」


 


初めて、理解する。


 


救いたかったのではない。


 


救うことで、

選ばれたかっただけだと。


 


 


だから。


 


もう、伸ばさない。


 


 


「……もう、いい」


 


 


その言葉とともに、ほどける。


 


 


差し出された手が、近づく。


 


触れる。


 


今度は――向こうから。


 


 


温もり。


 


 


力が抜ける。


 


もう、何もいらない。


 


 


白。


 


ただ、白。


 


 


その中に、静かに溶けていった。


 


 


――最後に。


 


ほんの一瞬だけ。


 


春風が、頬を撫でた気がした。


 


 


――第八十三夜・了

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