第八十五夜 違和感
翌日は皆、昼過ぎまで寝ていた。
起き出してからも、覇気は戻らず、どこか薄ぼんやりとしたまま時間だけが過ぎていく。
その中で――女将だけが、いつも通りだった。
「いつもすごいですニャ~、女将さんは……」
「……いえ」
「ここは、私の宿ですから」
柔らかく微笑む。
変わらない。
何も――変わらないように見える。
夕方。
酒猿と湯猫が、玄関の雪かきを済ませていた。
「すいません、何もできなくて」
「いいってこってすよ。あんなお客さんを相手にしてくれたんですから」
「あっしらだけじゃ、どうにもならなかったでさ」
「そうですニャ、この猿の喧嘩自慢じゃ何の役にも立たなかったです……ギニャー!」
雪の上で、しれっと四の字固めを極められる猫。
何だかんだで――元気だ。
夜。
女将と二人、神木に手を当てる。
失われていた輪郭が、わずかに戻る。
宿が、少しだけ息を吹き返す。
翌朝。
「……あれ」
最初に気付いたのは、枕兎だった。
「なんか……これ」
宿の景色が、どこか違う。
説明はつかない。
だが、確かにある――薄い違和感。
「おはようございます」
「あ、女将さん」
振り向く。
いつも通りの姿。
……だが。
何かが、引っかかる。
目――か。
昼下がり。
「ごめんください」
「いらっしゃいませ」
客だ。
二十代ほどの、若いカップル。
「すみません、まだ宿が修理中でお見苦しいのですが……」
「いえいえ、かまいませんよ」
にこりと笑う。
それに応じて、女将も微笑む。
――自然なやり取り。
何も、おかしくはない。
一番整っている客間へ案内し、落ち着く。
ほどなくして、二人は湯へ。
やがて上がり、瓶牛乳を手に、ゲームコーナーへと向かう。
笑い声。
軽やかに、弾むように。
浴衣姿の二人が、並んで笑っている。
こんな壊れかけの宿でも。
気にする様子もなく。
ただ、仲睦まじく。
――その少し離れたところで。
女将は、立っていた。
呼ばれることもなく。
何をするでもなく。
……ただ、そこにいる。
夕食。
酒猿が腕を振るった、特別料理の数々。
「いやぁ、あっしもね、こう見えて昔ゃ……」
何を照れているのか。
せっかくの粋な計らいだというのに。
「どうぞ、ごゆっくり」
一歩、下がる。
それ以上は、踏み込まない。
食後。
再び湯へ向かう二人。
戻り際には、マッサージチェアでくつろいでいた。
どこにでもいる、普通の客。
あの化け物が、まるで嘘のようだ。
こんな客ばかりなら――
そう思いかけて、やめる。
それを願うこと自体が。
この宿の在り方から、少しだけ逸れている気がした。
夜は、静けさに沈み――
やがて、朝。
早くから、男の客だけが朝湯へと向かう。
そして、朝餉。
二人とも、朝からしっかりと箸を進めていた。
「若いですニャ……」
湯猫が、感心したように呟く。
やがて。
「お世話になりました」
「ありがとうございました」
いつも通りに、頭を下げる。
女将が先に立ち、玄関まで見送る。
それに、続く。
坂を下っていく、二人の背。
並んで。
笑いながら。
――そのまま。
いずこともなく、消えていった。
その背を、女将は見送る。
見えなくなるまで。
……見えなくなっても、なお。
立ったまま。
ふと、気付く。
女将の目から――
一筋の涙が、こぼれていた。
拭おうともしない。
ただ、静かに落ちる。
……その視線は。
まだ、坂の先を追っているようだった。
――第八十五夜・了




