第八十夜 劇薬
「雪月花……か」
男は、大荷物を背に宿の玄関を潜る。
「いらっしゃいませ……」
女将が出迎える。
その顔を見た瞬間――
男の足が、わずかに止まる。
「……」
ほんの一瞬だけ。
何かを確かめるように、目を細めて。
――違う。
「……へえ」
口元が、歪む。
「ここもずいぶんと変わってしまいましたねぇ」
間。
「とにかく、おもてなしを拝見いたしましょう」
枕兎の案内で、さっそく部屋へ通る。
背の薬箱を下ろしながら、わずかに鼻が動く。
「ほう、安眠香ですか」
部屋に残る微かな香りを言い当てる。
「……わかるんですか」
「ええ、こう見えても一応、薬売りなもので」
少し面食らう枕兎。
「……それより、その縛帯」
「お怪我を?」
「……」
癒えきらぬ傷に視線が落ちる。
「どうです、こんな薬をひとつ」
薬売りは薬箱から、白い膏薬を数枚取り出す。
「寵命膏と言いましてね」
「万能とまでは言いませんが、それなりには効く」
「お代は結構です」
「え、でも……」
「お試しということで」
目を細める薬売り。
兎は一瞬迷い、やがて受け取る。
「ありがとうございます……」
「少し沁みますが、すぐ慣れますよ」
湯あがり処。
浴衣姿で湯冷ましする薬売り。
湯猫がひょいと姿を現す。
「どうでしたニャ、湯加減は?」
瓶牛乳を差し出す。
「……ふむ、悪くはなかったですね」
「で、これは?」
「ワガハイからのサービスですニャ」
「……この白い水は?」
「牛乳ですニャ」
一口。
「む、これは……」
「白牛酪ですね」
「……?」
「こんな珍しい薬をよく……」
「薬?……ですかニャ?」
首を傾げる猫。
「……ご存じないのですか……それは勿体ない」
そこから、薬売りの講釈が始まる。
効能、由来、体への巡り。
「フムフム、そうなんですかニャ~」
一方的に語られ続ける言葉を、湯猫はいつもの調子で受け流す。
夕餉。
「ほう、これは見事な」
料理に目を細める薬売り。
酒猿がにやりと笑う。
「聞きやしたよ、お客さん」
「お薬にお詳しいそうで」
「ええ、まあ……」
「今日はちょっと趣向を凝らしやして、薬膳料理にしてみやした」
「お口に合えば幸いで」
ふん、と鼻を鳴らす薬売り。
「……試してみましょう」
箸をつける。
「……悪くはない」
だが、
「私なら、この湯にこれは合わせない」
「巡りをよくするなら、もう少し――」
語りが続く。
酒猿のこめかみが、ぴくりと動く。
そして最後に。
「きっと」
「あの頃の女将さんなら」
ぽつりと。
「そのくらいは、わかっていたでしょうに」
裏でブチ切れ顔の酒猿を、また皆でなだめる。
その後、バー耳枕に現れた薬売り。
「ほう、あなたでしたか」
「……どうも」
無言で、席へ。
何も言わず、酒を作り差し出す。
スティンガー。
「……ほう、これは美しい」
ちびり、と傾ける。
「ふむ」
「そして強い」
静寂。
「さっきもらった膏薬……」
兎。
「あれ、応急処置にはいいんですけど」
「慢性にはちょっと……」
ちらり、と一瞥する薬売り。
「ほう、よくご存じで」
そこから、少しだけ噛み合う会話。
薬理、効き方、持続性。
互いに一歩も引かないが、奇妙に成立していた。
ふと、マッサージチェアを通りがかると。
深く沈み込んだまま、薬売りは眠っていた。
「お客さん」
思わず声をかける。
「む……」
ゆっくり目を開ける。
「何ですか、気持ちよく寝てたのに」
「いや、ちゃんと部屋に戻られた方が……」
一拍。
薬売りはゆっくりと体を起こす。
「……やはり」
「女将が変われば、こうも変わるもの、か」
「……え?」
それ以上は言わず、
露骨にため息をついて、部屋に戻っていった。
真夜中。
「……う」
目が覚める。
「飲み過ぎたか……」
静寂。
ふと。
笑ったかと思えば、
次の瞬間、
崩れる。
「……何だったんだ」
「俺の人生は」
「小賢しい商売を渡り歩いて」
「最後は……あんな」
言葉が、続かない。
「……きっと」
「最期は」
「呼ばれたんだ」
「女将さんに」
嗚咽が漏れる。
「……いかん」
震える手で、薬箱に触れる。
「こういう時は……」
手探りで取り出す、ひと包み。
湯呑みに残った湯で、
流し込む。
「……はぁ」
一息。
静まるはずの鼓動。
――違う。
「……ん?」
指先が、震える。
紙を、見直す。
「あ」
ボコ、と。
「あ……ああ……」
影が、軋む。
膨らむ。
崩れる。
隣室。
九尾の耳が、ぴくりと動いた。
――第八十夜・了




