第五十二夜 鬼の夜桜
翌朝。
壊れた屋根から漏れる朝日に照らされ、はる坊はゆっくりと目を覚ます。
そのとき――
肩から雑に着物を引っかけた半裸姿で、女がぬっと姿を現した。
「うわ!」
跳ね起き、後ずさるはる坊。
「おう、起きたか」
女は気にも留めず、濡れた長髪を掻き上げる。
「お前もどうじゃ?」
「朝風呂は気持ちがよいぞ」
はる坊の顔が、みるみる不機嫌になる。
「何じゃその顔は」
「わしの家でわしがどうしようと勝手じゃろ」
「……家?」
「というか」
女は鼻を鳴らす。
「お前、ちと臭うぞ」
「えっ」
慌てて自分の身体を嗅ぐはる坊。
「……ふ」
女は息を吐く。
「いちいち可愛いやつじゃ」
*
外に出ると、昨夜は暗くてわからなかった景色が、朝の光の中に広がっていた。
見事に晴れ渡る空。遠くには、広大な沼。
鏡のような水面に、透き通る空が映り込んでいる。
新緑を渡る風が、目の前に湧く濁り湯の湯気を運ぶ。
女が、隣に現れる。
「湯はそこじゃ」
「好きに使うといい」
はる坊はしばらく、言葉を失った。
「こんなところが……あったなんて」
女は満足そうに目を細める。
「なかなかいいところじゃろ」
二人はしばし、風に吹かれて立っていた。
「……ここは」
「何という場所なんです?」
女は目を細めて言う。
「……竜宮じゃ」
そして少し肩をすくめ、付け加える。
「まあ、人の言葉で言えばの」
竜宮――
聞いたことのない名だった。
村を出たことのないはる坊には、それはまるで異国、否、異界のようにさえ思えた。
「まあ、とにかく」
女は手を振りながら、堂へ戻る。
「ひと風呂浴びてこい」
*
湯あがり。
女に借りた手ぬぐいで、濡れた髪を拭く。
「あの」
「何じゃ」
言葉を探す。
「実は、探してる……人?……が、いるんです」
「ほう」
「鬼の夜桜、という……」
「ふむ」
「どこに行けば会えますか?」
「……わしじゃが?」
「え」
「わしが、鬼の夜桜じゃ」
はる坊がたじろぐ。
「え、でも……」
「鬼の夜桜は……その……化け物って聞いてたのに」
夜桜は少し伏し目がちになる。
「わしは……」
「化け物に見えんか?」
間。
「……見えないです」
はる坊は少し考えて、言った。
「人間です、どう見ても」
夜桜は一瞬だけ黙る。
それから、少しだけ笑った。
「そうか……それは」
「嬉しいの」
だがその笑みは、どこか寂しそうでもあった。
「して、このわしに何用か?」
はる坊の息が、一瞬止まる。
覚悟を決めて聞く。
「知りたいんです」
「雪女がどこへ行ったのか」
その言葉に、夜桜の表情がわずかに曇る。
「……雪女?」
「……はい」
夜桜は少し考えるように視線を落とす。
「……ふむ」
「……それはまた」
「ずいぶんと厄介なものを探しておるの」
「……厄介?」
夜桜は遠い目のまま言う。
「雪女というのはな……探せるものではない」
「たとえ妖の力をもってしても、そう易く見つかるものではない」
はる坊の肩が、わずかに落ちる。
「……そう、なんですか」
夜桜は続ける。
「吹雪に紛れて、時折こちらに迷い出ることはある」
「だが、吹雪が止めばまた消える――境界へ」
沈黙。はる坊は俯く。
「……しかし」
夜桜がぽつりと言う。
「お前さまの態度によっては、あるいは力になれぬこともない」
はる坊は思わず身を乗り出した。
「お願いします!」
「是非!」
夜桜は、ふっと息を吐く。
「では」
一拍。
「まず、付き合え」
「……え?」
肩をすくめる夜桜。
「わしの退屈しのぎじゃ」
湯の香りとともに――
桜の香りが、ほのかに流れた気がした。
「……退屈しのぎ?」
夜桜は、落ち着いた面持ちで言う。
「とりあえず……」
「朝餉にでもするか」
遠くの沼の水面が、わずかに揺れた。
――第五十二夜・了




