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雪月花  作者: 湯灯畳
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第五十三夜 遊興

夜桜が、おもむろに指をぱちん、と鳴らす。


目の前に、煙と共に現れる料理の数々。


見たこともないような華やかな食器に盛られた、ご馳走たち。


「……食ってくれるか?」


「こんな鬼の飯でも」


一瞬、何が起きたのかと目を見張るはる坊。


しかし直後には、思わずごくりと喉が鳴る。


何せここしばらく、粥と糒しか口にしていない。


食べないわけには、いかなかった。


「……じゃあ、せっかくなので」


箸を取り、軽く頭を下げる。


「いただきます」


上品な椀の炊き合わせに手を伸ばすはる坊。


夜桜は、ただそれを満足げに見つめていた。


*


食後。


「さて、では腹も一杯になったし、とりあえずこの辺の案内でもしようかの」


「案内?」


「せっかく来たんじゃ、ゆっくり見てゆかぬか」


「先刻も良きところじゃと、言うておったばかりではないか」


「ええ、まあ……」


何故か少し、不安になるはる坊。


 


沼の周りをぶらぶらと、並んで歩く。


流れる湯けむりを湛え、静かに空を映す広い水面。


静けさの中に響く、鳥のさえずり。


夜桜が、沼の方へ顎をしゃくる。


「まだ早いがの、もう少しすればあの湿原一面、白い綿で覆われる」


「綿?」


「ワタスゲじゃ。風が吹けば、雪のように揺れる」


足元の水際を指さす。


「今はまだ、ミズバショウとリュウキンカの頃じゃな」


黄色い花が、湯けむりの向こうで揺れている。


「この湯も悪くないぞ。古くから傷や冷えによう効くと言われておる」


夜桜は少し肩をすくめる。


「もっとも、鬼の湯など人はそう気軽に入りに来ぬがの」


ふっと笑う。


そして、ひょいと、軽い足でぬかるみを跳ぶ。


しかしその瞬間、ぐらり、と夜桜の身体が傾く。


それを見たはる坊が、咄嗟に手を伸ばす。


その手を掴む、夜桜。


次の瞬間、はる坊の足元が滑り、一人でぬかるみへ顔面から落ちる。


――静寂。


やがて、のそっと起き上がるはる坊。


その顔を見て――


「ぷ」


「ひどい顔じゃのー」


楽しそうに目を細めて。


無邪気に笑う夜桜に、むくれるはる坊。


「誰のせいですか」


手をひらりとする夜桜。


「わしは何もしとらんじゃろ」


くすくす笑いながら――


はる坊の頬についた泥を、夜桜は指でひょいと拭った。


そして、その目を見つめながら――


「お前さまは――」


「鬼蜘蛛の匂いがするの」


首を傾げながら。


「知っておるか?鬼蜘蛛」


そして、満面の笑顔を向けて。


「惚れた相手に、命をくれてやる……愚かな蜘蛛じゃ」


 


並んで歩く。


そして、ぽつりと。


「雪女、か……」


遠い目をしながら、話す。


「よいの、あれは」


「あれに惹かれる男は、無数におるじゃろ……」


どこか、寂しそうな声。


「……が、しかし」


「お前さまのように、あれを探そうとするなど、聞いたこともない」


「よほど……魅せられとるんじゃの」


はる坊は、黙ったまま。


「……妬けるの」


春風が、ふわりと湯けむりを運ぶ。


「……じゃが」


一泊。


「わかるぞ」


穏やかな声。


「そのようなお前さまにとって、世の風は――」


「冷たかろう」


遠くを見る。


「お前さまのその熱を――」


「一体誰が汲み取れよう」


無言で俯くはる坊。


足元の小石を、つま先で小さく転がす。


「それゆえ――」


「わしに会いに来たのであろう?」


「鬼の夜桜ならば、きっと願いを」


「叶えられる、と……」


 


「……」


「いえ」


俯き、一点を見つめる。


「願い、というか……」


小さく、ため息。


「望みが……なかったんです、それしか」


「……ほう?」


「もう俺、この先どうなっても……」


「他に、できることなんて……」


おもむろに、


ぴたり、と夜桜の歩く足が止まる。


「……?」


「ここはな」


目線を落とす。


「鬼の玉手箱、というてな」


沼の向こうに湯を望む、廃寺のちょうど対岸。


石で丸く囲まれた、奇妙な場所。


「迷うた人間の、願いが届く」


「え……」


「……わしもな」


「かつてここで、願いを……」


夜桜は、言いかけて口を閉じた。


「……いや」


「忘れてくれ」


夜桜は、目を伏せる。


しばし沈黙が落ちる。


湯けむりが、静かに流れてゆく。


再び歩き出す。


唐突に。


「お前、雪女のどこが好きか?」


一瞬、息が詰まる。


考えたこともない。


どこが好き、なんて。


「……ふ」


「本当に初心じゃの、お前さまは」


「言うてみ、この鬼の夜桜に。さすれば……」


はる坊の脳裏に、あの月明かりの下の姿が浮かぶ。


しかし、言葉になど到底できない。


ただ俯き、無言。


それを横目に、ふっと息を吐く夜桜。


「……よい。言えぬなら、仕舞っておけ」


その言葉に、はる坊はほっと胸を撫でおろした。


 


そのまま、他愛のない話。


いつしか二人の足跡は、あばら家へと戻っていった。


*


夜。


再び夜桜の指先一つで馳走が並ぶ。


「……またこんなに」


「食え、遠慮せず」


「……いただきます」


箸を取る。


「……うまいか」


「……ええ」


「そうか」


見つめる夜桜。


「……酒もあるぞ」


「……いえ、酒は」


「何じゃ、下戸か」


「……ええ」


蝋燭の灯りと月明かりが、あばら家を仄かに照らす。


静かな夜。


箸の触れる音だけが、小さく響く。


ふと、夜桜の足が動く。


着物のはだけた隙から覗く、白い足。


蝋燭の火に照らされ、艶めいた影を落とす。


視線を逸らす。


静寂。


やがて、ぽつりと。


「――鬼蜘蛛は」


夜桜が、膝を寄せる。


蝋燭の火が揺れ、白い足がすぐそばにあった。


「惚れた相手に、命を差し出す、と――」


囁くように。


「……お前さまは」


「誰かに命を差し出してみたい、と……」


「そう思うたことはないか?」


 


はる坊は、しばらく黙ったまま見つめる。


あのとき――


己が身を顧みずに、咄嗟に刃へと飛び込んだ記憶が重なる。


胸の奥が、わずかに軋む。


――やがて小さく、息を吐く。


「……今は、思い出したくないです」


夜桜は、目を細める。


「……そうか」


 


しばらく、食事の音だけ。


そして。


「……逢わせてやってもよいぞ」


唐突に。


「雪女に」


その瞬間。


目の前の夜桜の姿が、みるみる白くなる。


 


その姿は、ゆき姉だった。


月明かりの夜のままの。


思わず箸を落とし、しばらく唖然とするはる坊。


心臓が、大きく跳ねる。


 


だが――


違う。


 


ゆき姉は――


そんな目をしない。


 


ゆっくりと箸を拾う。


そして、何事もなかったかのように料理を口へ運ぶ。


無言で、箸を動かす。


 


やがて、静かに元の姿に戻る、夜桜。


どこか、取り残されたような、


少しだけ、不思議そうな眼差しで、


ただ、その様子をじっと見つめていた。


 


蝋燭の火が、ふわりと揺れた。


 


――第五十三夜・了

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