07 屯田
畝のあいだを渡る風に、穂の列が揺れていた。黒土のまま荒れていた地には粟が並び、刈り手の声がところどころから上がっている。許の城門を遠くに望む一帯は、幾筋もの畝で埋まりつつあった。
棗祗は一株を手に取ると、穂の重さを確かめ、指先で粒を押しつぶす。中には詰まった実があった。
「思ったよりも、よう実りましたな」
背後から足音がし、任峻が近づいてきた。衣の裾には、同じ土がついている。
「初めて畝を起こした年にしては、上出来にございましょう。飢えで倒れる者も、今年はほとんど聞きませぬ」
遠くを見やれば、粗末な屋根の下に煙が立ちのぼっている。昨年まで城門の外をさまよっていた流民の顔が、いまは畔に腰を下ろし、汗をぬぐっていた。
「腹が満つれば、眼の色も変わる」
棗祗は穂の根もとを見つめた。根から伸びた茎は、しっかりと立っている。
「伯達殿の手並みのおかげでありましょう」
任峻は首を振った。
「始めの形をお定めになったのは棗都尉にほかならず。私は、その通りに人と畝とを並べたまで」
「人が畝を得て穀を立て、その余りが倉に入るのです。文に引いた筋道が、こうして目の前に現れるものではありませぬ」
穀を載せた車が通り過ぎ、脇を歩く兵の影が揺れる。
「今年分を倉に収めても、なお家々に粟が残りましょう。徭役を免ぜられた者どもは、来年にはさらに家を固めているはずです」
任峻の言葉に、棗祗はうなずいた。
「糧が人を呼び、人がまた畝を起こす。流れ歩く者が減り、城の戸数も戻りつつあると聞きます」
視線を移すと、新しく立てられた屋根がいくつも見えた。戸口には水を汲む壺が掛かっている。
「ただ、畝を求める者は年ごとに増えましょうな」
任峻が言った。
「この辺りの荒れ地も、じきに尽きる。郡ごとに同じ法を敷かねば、人を受け止めきれますまい」
棗祗は手にしていた穂を折り、粒を掌に落とす。
「地は限りがある。だが糧を求める腹は尽きぬ。今のうちに秤を揃えておかねばなりますまい。郡と国のそれぞれに田を掌る官を置き、畝と人との札を改めるべき時が来ておるのかもしれませぬな」
任峻は連なる畝の列を見渡した。
「ならば、私も筆を執りましょう。典農の務めとして、どこまで畝を増やし得るか、地と人の有り様を記しておきます」
棗祗はうなずき、掌の粒を土に落とす。
日を追い、月を重ねるごとに、屯田の簿は行を増していった。許の左右に限られていた畝は、やがて諸郡へと広がり、流民として記されていた名は戸口の列へと移り替わっていく。収穫のたびに改められる報は、穀の巡りが確かに太くなりつつあることを伝えていた。
許の城の内は、収穫の報を受けてわずかに明るさを帯びていた。司空府の一室には札と巻が積まれ、曹操と荀彧とが向かい合って坐している。
「今年の屯田、いかほどの実りであった」
曹操が問うと、荀彧は簿をひらいた。
「許の左右の屯田だけで、兵三万に糧食を給するに足ると見受けます。流民として戸口に記されなかった者も、いまは畝ごとに名が記されております」
曹操は行を追い、指を止めた。
「飢えていた者どもが、いまは畝に根を下ろしておるか」
「はい。徭役を免ぜられたことで家も立てやすく、子の声も戻りつつあると聞きます」
曹操は息を吐いた。
「その場に立たねば見えぬものだな」
そのとき、外から足音が近づいた。棗祗と任峻とが拱手して進み出る。衣の裾には、まだ土の色が残っていた。
「棗祗、伯達」
曹操はふたりを見回した。
「書簡の上で見るよりも、その顔を見ておきたかった。荒れ地を畝に変えた苦労は、筆では量りきれぬ」
棗祗は頭を垂れる。
「曹公の威を受け、伯達殿らの力にすがったまでにございます」
任峻が続いた。
「流れ歩いていた者どもが、自らの畝を、我が田と呼ぶようになりました」
曹操は几の上の地図を引き寄せる。
「許の下ばかりでは足りぬ。諸郡にも、この法を広げねばならぬだろう。伯達」
呼ばれて、任峻は拱手した。
「は」
「典農中郎将として、今後は諸郡の屯田を総べよ。各郡・各国に田を掌る官を置き、人と畝とを記させるのだ。棗祗の発した法を、お前の手で地に根付かせよ」
任峻の背筋が伸びる。
「その務め、お引き受けいたします。荒れた地を見れば畝を起こし、流民を見れば戸に帰し、倉を見れば粟で満たすよう努めましょう」
曹操はうなずき、棗祗の方を見た。
「棗祗。お前は屯田都尉として、これまでの形をさらに磨け。税の割り方、人を募る法、痩せた年に倉を搾りすぎぬ戒め、そのすべてを文に記し、諸郡の手本とせよ」
棗祗は笑みを浮かべ、高揚を覚えながら答える。
「承りました!屯田の法が兵と民の根となるよう、条を立ててまいります!」
そののち幾年もたたぬうちに、許の城の外には新たな棟が並び始めた。城壁に沿って倉が立ち並び、その戸口には封じ紐の赤が揺れている。車の音が途切れることはなく、粟を積んだ袋が日ごとに運び込まれていた。
棗祗はその一隅に立ち、倉の列を見渡した。かつては荒れ地ばかりが続いていた方角に今では道が通じ、穀の詰まった麻袋を担ぐ男たちの肩が行き交っている。
「これほどの倉を、いつ建てたものか」
傍らで任峻が苦笑を含んで言った。衣の袖には、今も筆と土の跡が交じっている。
「郡と国に田官を置き、屯田の札を改めるたび、どこかの吏舎から倉を求める文が届きました。人が増え、穀が増えれば、納める器もまた要るということでしょう」
棗祗は最も新しい倉の戸口に近づき、封じ紐の下から漏れる香りを吸い込んだ。粟の甘い匂いが、ほのかに鼻をくすぐる。
「許の下だけでこれと同じ倉がいくつも建ち、諸郡にも、似たような列が立ったと聞きます。典農中郎将の働きの賜でありましょうな」
任峻は首を振った。
「始まりは都尉の上申にございます。流民に畝を預け、五公五民を本とし、痩せた年には四公六民にとどめる。その筋があったからこそ、各郡の田官も秤を誤らずに済んだのです」
倉の中では、穀を詰めた袋を積み直す音がしていた。吏が札を手に袋ごとの石数を書き入れ、秤の皿がゆっくりと揺れる。
「郡ごとに田官を置き、簿を別にしたのは伯達殿の工夫でありましたな」
棗祗は言った。
「屯田の民を郡県の政から切り離し、畝と人とを一筋に記す。兵を挙げるにも、倉から粥を出すにも迷いませぬ。あれがなければ、これだけの穀を扱い切れますまい」
任峻は倉の棟木を仰ぐ。
「最初の年、許の左右の屯田だけで兵三万を養えると聞いたときには、私もほっといたしました。今では郡と国を合わせれば、その幾倍の兵を腹から支えられる。数年のうちに百万斛を蓄え、郡国ごとに田官を置き、倉庫が満ちたと、誰かが史に記す日も来ましょう」
棗祗はその言を聞き、ふと笑みを浮かべた。
「筆の冗談にしては、よくできておりますな」
そこへ、一人の吏が駆け寄ってきた。手には新しい書簡を抱えている。
「棗都尉、伯達殿。司空府よりの報にございます」
几の代わりに、倉の戸口で封を割る。荀彧の筆であろう端正な字が並び、諸郡からの屯田の報がまとめられていた。
『諸郡・諸国の屯田、今年もまた豊かに実る。流民として記された者どもは減じ、戸口は増す。粟は倉に満ち、兵の糧に不足なし。軍国の饒えは棗屯田都尉に始まり任典農中郎将に成るといえる。』
読み終えて、棗祗は手で口元を抑えて笑いを堪えた。任峻が横から行をのぞき込み、苦笑を洩らす。
「文若殿も、なかなかに人を持ち上げられる」
「筆をおさめるには、こうした一句も要るのでしょう」
棗祗は書簡を巻きながら、胸の内でその言葉を転がした。軍と国とがともに饒えたと評される日が来るとは、飢えた兵と流民の顔ばかりを見ていたころには思いもよらなかった。
倉の外では、兵の列が通り過ぎていく。甲冑の音が揃い、歩みは乱れぬ。腰のあたりに、かつて見たような空腹の色は薄い。
「この穀があれば、いずれ来る大きな戦にも耐えうるであろう」
任峻が兵の後ろ姿を見送りながら言った。
「敵がどれほど旗を並べようとも、腹の足りぬ軍は長くは持ちませぬ。倉が満ちていれば、曹公の秤は、より自由に振れるはずです」
棗祗はうなずく。
「畝に鍬を入れる音が、やがて鼓と角笛の響きを支えることになりましょう」
風が倉の棟を渡った。その中には、数え切れぬ粒の粟が眠っている。流民に預けられた畝から始まった穀の巡りが、いまや国と軍をともに支える柱となっていた。
棗祗は最後にもう一度、倉の列を振り返った。荒れ地だったころの景色と、今目の前にある満ちた倉が、胸の内で重なる。
「伯達殿」
笑みを浮かべて呼びかけると、任峻は振り向いた。
「この倉の群れが、どこまで伸びるか。これからも、共に見届けてまいりましょう」
任峻は拱手して答えた。
「はい。都尉とともに」
その言葉を合図とするかのように、遠くで鼓が鳴った。旗が城上に翻り、粟の山の向こうで、次なる戦の前兆がかすかに現れ始めていた。




