06 流民
堂には重苦しい沈黙が立ち込めていた。誰もが荀彧の口もとをうかがい、息をひそめている。
そのとき、列の一角で衣擦の音がした。韓浩が拱手して言上する。
「言を許されたい」
荀彧が顔を向けた。粗い眉の下の眼には、戦場の記憶が残っている。
「元嗣殿、どうぞ」
韓浩は棗祗と侯声とを順に見やり、口をひらいた。
「私は、棗羽林監の案が良いと思います」
その一言に、堂の空気がわずかに動く。韓浩は言葉を継いだ。
「幾たびも軍を率いてまいりましたが、足りぬのはいつも人ではなく糧でした。戦のたび里は焼け、田は荒れます。そうした者どもを兵に取り立てようとしても、腹が空いていては槍を支える腕も震えるのです」
痩せた兵の姿が、聞く者それぞれの胸に浮かぶ。甲をまといながらも腰の帯に隙のある若者たち、その顔と腕に刻まれた飢えの色を、誰もが一度は見てきている。
「牛を限りとして倉を満たす策は、倉を守るにはよろしいでしょう。されど官の牛がゆかぬ里の者どもは、いつまでも他所の粥を待つのみとなります。里ごとに田を割り、寄る辺なき者に畝を預ければ、その里は自らの糧を立てることができる。兵を募るにも、その方が骨のある者が育ちましょう」
堂にいた者たちは、思い思いに眉をひそめ、あるいはうなずいた。荀彧は黙って韓浩の言葉を追った。
「元嗣殿は、流民に畝を預けても逃げ散らぬと見ておられるのですね」
「腹の足りぬ者は、行き場を失って流民となります。畝と糧があれば、腰を落ち着ける者も少なくはありますまい」
韓浩の声は一句ごとに実感があった。
荀彧は視線を落とし、几の上の札を手で揃える。棗祗の名を記した訴えが、その上に載っていた。
「棗羽林監は田を割り人に畝を預けることを主とし、侯軍祭酒は牛と地とを官の掌に収めることを主とします。元嗣殿の言は、また別の面から同じ秤を見ておられる」
荀彧はそう言ってうなずく。
「諸君の言、しかと承りました」
荀彧は棗祗の方を見た。
「棗羽林監の案、上申の書を改めて私のもとへ届けて下さい。元嗣殿は、軍の実情を記した書簡を添えていただけますか。侯軍祭酒の意見も書き添え、あわせて曹公に奏上いたします」
堂の中には、軽い安堵の気が流れた。棗祗は拱手し、韓浩も頭を下げる。
荀彧は几の札を持ち直した。これから新たに載せるべき印の責を思えば、胸の秤はようやく定まりつつあった。
荀彧が司空府に戻ったのは、陽が西に傾きかけたころである。曹操は筆を置き、荀彧の顔を見た。
「棗祗の案、その後はいかがであった」
荀彧は拱手して答える。
「侯声殿の言も、元嗣殿の言も、あわせて聞きました。官の牛と地とを掌に収めれば扱いは易くございましょうが、それでは流民はいつまでも寄る辺を持てませぬ。里ごとに田を割り、流民に畝を預けて糧を立てさせ、その余りを倉に収めるべしと存じます」
曹操は束の間黙し、天井を仰いだ。
「牛を限りとして倉を満たす法は、守りやすい。だが、それでは腹を空かせた者どもがいつまでも城門の外をさまようことになるか」
「はい。元嗣殿もまた、そのことを憂えておりました。兵となる者も、まずは糧を得てこそ力を尽くせます」
荀彧の言葉に、曹操は小さくうなずく。
「よし。棗祗の言、採るとしよう。屯田の法は今後の兵と民の根となる。根を浅くしては、木もまた長くは持つまい」
曹操は筆を取り直し、新たな札を几の中央に引き寄せた。
「棗祗を屯田都尉とし、諸郡の屯田を総べさせる。あわせて任伯達を典農中郎将とし、人民を募って許の県下に屯田させよ」
荀彧は拱手し、印を押す支度に移る。
ほどなくして、棗祗は司空府に召された。几の前にはすでに一人の士が侍している。目つきは穏やかであったが、その奥には折れぬ芯が見えた。
「あなたが任伯達殿か」
棗祗が問うと、男は立ち上がる。
「は。飢饉の折、流民と孤児のことを記しておられた棗都尉のお名、かねてより聞き及んでおりました」
棗祗はその言に、胸のどこかが応えるのを覚えた。
「伯達殿こそ、友の遺児を引き取り、一族の貧しき者を救われたと聞きます。屯田の務めは、ただ田を耕させるばかりではございませぬ。行き場のない腹に、畝を与えることと存じます」
任峻はうなずく。
「その務め、喜んでお受けいたします。流れ歩く者を集め、荒れた田に立たせましょう。糧を得たのちには、兵にも民にもなり得ましょう」
二人は几の上の地図に目を落とした。許の周りには、まだ名だけを記された荒れ地が広がっている。そこに新たな畝と人の名を書き添えるのが、彼らの務めである。
数日ののち、新たな屯田は形を取り始めた。司空府の一室には簿と地図が広げられ、その中央に棗祗と任峻とが向かい合って坐している。傍らには韓浩も控え、耳を傾けていた。
「まずは流れ歩く者どもを募り、荒れた田を与えまする」
棗祗は筆の先で地図の上をなぞった。許の城の外には、かつて畝であった土がまだ黒く残っている。
「この一帯は、戸口も多く、水も尽きてはおりませぬが、戦で焼かれて人が絶えました。ここへ流民を入れ、畝を引き直します。牛と犂は官より貸し与え、刈りとった実りのうち半ばを官に納め、半ばを自らの糧とさせる。税は五公五民とし、痩せた年には四公六民までとどめ、無理に倉を満たさぬようにいたします」
任峻は地図から顔を上げた。
「徭役は、いかがいたしますか」
「屯田に入った者から、しばらくのあいだは徴せぬようにすべきと存じます。畝を起こし家を立てるには、幾年かの余裕が要りましょう。代わりに、いざ戦が起これば、この畝に立つ者どもから兵を取り立てることができるはずです」
任峻がうなずく。
「典農中郎将の下に各郡の典農都尉を置き、屯田の民は郡県の政とは別にまとめておく。簿もまた別に作り、畝と人とをひと続きに記しておけば、兵を挙げるときにも糧食を割り振るときにも迷わずに済みましょう」
棗祗はその言を聞き、胸の内で算が噛み合うのを覚えた。
「伯達殿のお考え、頼もしくございます。官が握るべきは、やはりその巡りを定める律でございましょうな」
韓浩がそこで口をひらく。
「畝を守らせるには兵の目も要りましょう。私の配下から幾隊かを割き、屯田の場ごとに置いておきます。掠め取ろうとする者を退け、民が安心して鍬を振るえるようにするためです」
任峻は笑みを含んでうなずいた。
「それは有り難い!元嗣殿の兵がいれば、流民も心強く思いましょう!」
話がまとまると、棗祗は筆を執り、新たな札に今決めた形を書き記していった。その一行ごとに、人と畝と倉との巡りが結ばれてゆく。
やがて、許の城門の外には新たな旗が立った。屯田を告げる榜が掲げられ、流れ歩いていた者どもが足を止める。
牛が犂を引き、鍬を振るう手の数は日ごとに増えた。棗祗はその光景を見つめながら、この畝がひとつ起きれば粥の数がいくつ増えるか、胸で数を重ねていた。
倉に納められる穀がいくばくとなり、どれほどの兵が腹を満たせるか。畝と人とが交わるところに、国の糧の巡りが生まれるのである。




