08 蒼天
許の城の上には、官渡の戦いの煙が、まだどこかに残っていた。勝利の報がもたらされてから幾月も経たぬうちに、城内の倉には粟が満ち、鼓と角笛の音は次の軍を呼び集めている。
あの日、許の城で棗祗と任峻が胸に希望を抱き任を引き受けた姿は、曹操の眼の裏にも新しかった。大地の色を裾に帯びた二人の顔が、折に触れて脳裏に浮かぶ。
この日も、司空府の几の上には多くの書簡が積まれていた。関中の情勢を伝えるもの、荊州と江東の動きを報ずるもの、屯田の報を改めたもの。曹操は筆を置き、一枚ずつ行を追っていく。
ふと、一巻の書簡が目に留まった。封に、任峻の印が見える。
曹操はその書簡を取り上げて封泥を割った。
『屯田都尉・棗祗、病を得て起たず。』
はじめの一行を読み終えると、無意識に息が止まった。続く行には、病の次第と、その終わりが記してある。官渡の戦のあと、務めにあたりながら病を重ね、ついに力尽きたとあった。曹操は言葉をなくし、しばらく次の行へ眼を移せなかった。
「あれが、逝ったか」
誰にともなくつぶやいた言葉が、室の板に落ちる。荒れ地を畝に改めたときも、倉の列を見上げたときも、棗祗はいつも他人の腹と倉の中身ばかりを案じていた。軍の先に立つこともなく、旗の後ろで糧の巡りを考え続けた男であった。
曹操は書簡を握る手にゆっくりと力をこめた。
「……まだ、何も返してはおらぬ」
官渡の戦いの賞は、名の挙がった将たちに与えられた。だが、その背後で兵と糧食とを支えた者には、いまだ大きな印綬は届いていない。屯田都尉の号を授けたきりで、棗祗には侯の印も、広い邑も与えてはいない。
几の端には、諸郡の屯田の札が積まれている。許の左右から始まった畝は、今や各州、各郡へと広がり、倉の列は日ごとに増えていた。その始まりに棗祗と任峻の名があることを、曹操は誰よりもよく知っている。
「倉の影に隠しておくには、惜しい男であったな」
独りごとのような声が室に溶けた。外では鼓が鳴り、兵の履の音が石を渡っている。その響きの中で、曹操は書簡を巻き、几の上に置いた。
官渡の勝利の喧しさは、まだ城のどこかに残っている。だがその影で、民と糧を案じていたひとりの士は土に帰った。曹操は目を閉じ、あの日の粟の匂いと、棗祗の足どりとを、胸に呼び戻した。
幾日かののち、司空府の一室には、再び棗祗の名を記した書簡が運び込まれた。葬の次第と、遺された家の有り様が、豫州刺史の手で改められている。
曹操はそれをひらき、最後の行まで目を通した。棗祗には子があり、名を処中といった。父の務めを傍らで見て育ち、今は家を支えるに足る年とある。
書簡を巻くと、曹操は几の向こうに坐る荀彧に目を移した。
「棗祗には、太守を贈れ」
告げた声に迷いはない。
「屯田都尉の号のままでは、あれの功に届かぬ。郡を治める位を贈り、働きに報いてやらねばならぬ」
荀彧は拱手した。
「承りました。子の処中には、いかが取り計らいましょうか」
曹操はひととき考え、やがてうなずく。
「処中をして、その爵と地を継がしめよ。家に祠を立て、春秋の祭を欠かせるな。父の名を口にし、屯田の始まりを忘れぬようにさせるがよい」
荀彧は筆を取り、札の端に文案を記した。
『前屯田都尉・棗祗、興廃の際に在りて畝と倉を立つ。流民に地を与え、軍国の穀を実らす。その功、太守に贈るもなお足らず。不朽の事業、後に広く伝うべし。其の子処中をして爵土を継がしめ、祠を立てて四時に祀らしめる。』
書き終えて顔を上げると、曹操は言葉を継ぐ。
「武をもって名を挙げた者には、多く印と旗が集まる。だが、倉を満たし畝を起こした者の名は、しばしば文の隅に押しやられる。棗祗のことは、そうさせたくはない」
荀彧はその言を胸に刻むように、ゆっくりとうなずいた。
「この文を朝に備え、帝の詔として群臣に示しましょう。軍の糧食がいかにして成るかを知らしめることも、また教えのひとつにございましょう」
格子窓の外で、鳥の群れが鳴いていた。書はやがて書吏の手に移り、朝堂に備えられる。墨が乾く間、曹操はなお几の端に指を置き、棗祗の名を見つめていた。
帝の詔が朝堂に掲げられてからも、戦の火は消えなかった。旗はたびたび方角を変え、軍は北へ南へと移り、鼓と角笛の音が国の端々まで響いた。だが、そのたびごとに倉は戸を開き、畝は命の源を差し出した。官渡ののち幾たびも大軍が起こされたが、飢えのために旗を倒したという話は、その後ほとんど伝わらぬ。
許の城の外には、今も畝が続いている。荒れ地であったところには家が並び、かつて流民として記されていた名は、戸口の列に移っている。子の声が増えれば、畝に立つ者の姿も増える。誰が最初にこの秤を定めたのかを知らぬ者も、鍬を振るう手を止めぬかぎり、糧は絶えぬ。
三国志の書を繙けば、棗祗の名の伝はなく、諡号もまた記されてはいない。ただ、武帝紀や任峻伝の一隅に、屯田の提唱者として簡に記され、曹操がその功を不朽の事業と称えたとあるばかりである。
そののちも、屯田の法は魏の政に組み込まれ、地と人との簿は、戦のたびごとに改められた。後に晋や他の王朝においても、田と兵をともに支える法として、形を変えながら受け継がれたと、後人の書は伝えている。畝に鍬を入れて糧を得るというただそれだけの理が、幾代にもわたり兵と民の命をつないだのであった。
雲の外には、変わらぬ空がある。棗祗というひとりの士の名は、歴代の将のように大きく書には残らなかったが、その生は雲を抜けた天のように、のちの世の畝と倉の上に長く広がっている。許の畔を渡る風が粟の穂を揺らすとき、誰かが彼の名を知らずとも、その証は確かにそこに在り続けるのであった。




