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04 兵糧

 冬。畝には枯れた茎ばかりが残り、郊外の煙に貧しさが見える。洪水と凶作が続き、州中は飢えに苦しんだ。


 「一石、五十万と申しまするか」


 吏舎の一隅で、若い吏が声を失っていた。年長の吏がうなずく。


 「諸郡からの報にそう記されておる。人が人を食うとの噂まで伝わってきた。兵を募る策も、今はやめよとある」


 棗祗は几の前でその言を聞きながら筆を止めた。東阿の市でも値は上がっていたが、市の隅にはまだ穀を売る店がある。


 「城外の荒れ地は、どれほど埋まった」


 棗祗が問うと、年長の吏は札を差し出した。


 「前にお命じの通り、里ごとに畝を分け、流民を入れております。耕した田は三割ばかり増えました」

 「よし。畝に付けた名は外すな。明年にも同じところを耕せるようにしておけ」


 城外には粗末な屋根が並ぶ。棗祗は大地を踏みしめ、流民の顔を見た。力の残る者は畝へ、鍬を持てぬ者は城内の作業と施粥の列へと回した。


 「軍の倉と民の倉とを分けておいたのは、良き策にございますな」


 別の吏が、倉の鍵を束ねた紐を握りながら言う。


 「倉を改めるたび行き来するのは骨が折れまするが」


 棗祗は、わずかに首を振った。


 「分けねば、どちらも守れまい。軍の糧が尽きれば旗が倒れ、民の糧が尽きれば畝が枯れる。どちらもこの城の石の一つと心得よ」


 そのとき、外から駆け足の音が近づいた。伝吏が膝をつく。


 「県令様。曹将軍の軍、呂布との戦いより兵を退き、東阿へ向けておられる由。先立つ書簡にて、糧の便りを求めよとのことにございます」


 吏舎に緊張が走った。棗祗は立ち上がり、倉の鍵束に視を移す。


 「みな、この東阿の糧をもって将軍の旗を支えるぞ!」


 棗祗は吏たちを見回した。


 「軍の倉を改め、今ある穀と、冬を越すまでの日数とを秤にかけよ。粥を薄めることはあっても、畝の種だけは食ってはならん。明年の畝を崩せば、来年の飢えはさらに酷くなるぞ」


 吏たちは一斉に頭を下げ、倉へと走った。この城に積まれた穀の山が、一軍の命を支える支点となろうとしている。


 数日ののち、城の北門には、朝から人の列が延びていた。倉の前へ穀の詰まった麻袋が運ばれ、鍋を抱えた女や子を負った者が施粥の列に並ぶ。誰もが視の端で城外の道を気にしていた。


 やがて、見張りの声が城上から落ちる。


 「旗が見えます!曹将軍の軍に相違ありません!」


 土煙の向こうから、矛と戟の列が近づいてきた。甲は泥まみれ、馬の首は細くなっている。だが、列そのものは乱れてはいなかった。


 「門を半ばまで開けよ!兵を里ごとに分け、宿を割り振れ!まず煮炊きの場を支度せよ!」


 棗祗が命じると、吏と若い者たちが走る。ほどなく門前の広場には大鍋が据えられ、倉から運ばれた穀が洗われ始めた。


 先頭に進み出た一騎が、馬を下りて兜を取る。眉間に刻みの深い男である。曹操であった。


 「東阿の倉はいかほど保つ」


 棗祗は石段の下に進み出て拱手した。


 「軍と民とを合わせ、冬を越すだけの糧には足りまする。来年の種とすべき穀は、別に倉へ移してあります」


 曹操の視がわずかに動いた。


 「ほう」


 棗祗は続ける。


 「荒れ地を里ごとに分け、流れてきた者どもを入れて耕させております。軍の倉とは別に、民の倉を立て、里の畝ごとに簿をつけました。今ある粥を薄めれば、ひと冬はしのげましょう」


 曹操は城内へ目を向けた。北側の外城には、切り開いたばかりの畝と粗末な屋根が続いている。門の内には二つの倉が並び、入口には別々の印が掛けられていた。


 「軍の倉と、民の倉か」


 曹操は言った。


 「はい。軍の倉は曹将軍の旗を支えるため、民の倉は畝を支えるためにございます。どちらか一つを空にすれば、もう一つも長くは持ちませぬゆえ」


 曹操は束の間黙し、城内にひしめく兵と民を見渡した。粥を受けるための列が揃い、鍋の周りでは兵と民が肩を並べて碗を待っていた。列の一角には、将軍・于禁の姿も見える。彼は黙って兵の間を行き来し、その足どりには疲れよりも律の固さがあった。


 曹操は、再び倉の方を見た。


 「このやり方は、ここだけのものにしておくには惜しい」


 棗祗は息を詰めた。


 「荒れ地を見据え、流民を畝に入れ、軍と民とで倉を分ける。こうした法を定め、州の地に広く行えば、兵を増やさずとも旗を支えられよう」


 曹操の言は、自らに語り聞かせるようであった。飢えと乱れのただ中で、この男はなお先の年の畝を見ている。そう感じとりながら、棗祗は頭を垂れた。


 夜の帷は早く下りた。東阿の城の上には雲がかかり、星の光もかすんでいる。吏舎の窓には、灯の火がひとつ残されていた。


 棗祗は几の前に坐していた。昼のうちに集めさせた札が幾重にも重なり、その端に石を載せてある。外からは、かすかな見回りの足音と、遠い方で鍋を洗う水音がした。


 簿の行には、兵の数、流民の数、里の数、畝の広さ、倉に積んだ穀の数が並んでいる。棗祗は筆をとらずに、その一つ一つを目で追う。数そのものよりも、その裏にある腹と畝の姿を量ろうとしていた。


 日ごとに変わるのは穀の数だけではない。畝を失って城に入った者や畝を得て城を出てゆく者、里ごとに移した荒れ地の境と、考えねばならぬことは多い。今日一日を支えた糧が、明日の畝を削ってはならぬ。


 軍の倉と民の倉とは、ようやく形を分けたにすぎぬ。倉を分ければ数は見えるが、その数を誰の手に託し、どこまで任せるかを誤れば、やがてまた一つに混じり合う。


 棗祗は、札を一枚抜き取り、数行を書き付けた。各里に名を挙げ得る者を立て、畝と倉と人とをあわせて預け、兵と民の口を、それぞれ別の秤の皿に載せず、一つの綱で引く。そのおおまかな形を、乱れぬ字で記した。


 筆を置くと、指先に疲れを感じた。東阿一城のうちで保たれているこの形が、范や鄄や、その先の州の地にも及びうるのかどうか。心は自然と城の外へ向かっていった。


 いま目の前にあるのは、一冬をしのぐための糧である。だが、兵と民とが幾度この飢えを繰り返すかを思えば、本当に量らねばならぬのは、畝と倉と人の巡り方にほかならぬ。


 昼の城門で、曹操が外城の畝と屋根とを一目に見渡した姿が、ふと脳裏によみがえった。飢えた兵の顔と、粥を受ける民の列とを同じ眼で量り、その先の年のことを口にした男である。その視線に応えるだけの形を、ここで築かねばならぬと、棗祗は思う。


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