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03 東阿

 ほどなくして、城を包む空気はいよいよ切迫してきた。吏舎にはひっきりなしに伝吏や斥候が出入りを重ねている。


 ひとりの斥候が、塵にまみれた顔のまま几の前にひざまずいた。肩で息をしながら、かすれた声を絞り出す。


 「諸県、次々と張邈と呂布に呼応しております。旗も印も、すでに改められております」


 室の隅で筆を運んでいた吏たちの手が、思わず止まった。棗祗は斥候を見下ろす。


 「反した城は、いくつか」

 「曹将軍に忠を尽くす城は、今や、ここ東阿と鄄城、はんの三城のみと見受けます」


 口にされるわずかな地の名が、虚しく室の中に響く。


 斥候が退がると、年長の吏が一歩進み出た。手にした札がかすかに震えている。


 「県令様。州のほとんどが呂布に従うとなれば、ここもまた攻め寄せられましょう。民の中には、門を開いて身を軽くすべしと申す者も出るやもしれません」


 棗祗は、吏の言をさえぎらずに聞いていた。逃げ惑う人々の姿を、彼は幾度も見ている。恐れは責めるべきものではないが、恐れに身を任せれば、畝も家も、ふたたび灰に帰すだけであった。


 「門を開けば、乱の渦に自ら飛び込むことになる。ここを守り抜けば、この地の糧は保てる」


 そこへ、城門の方から駆け足の音が近づいた。戸が開け放たれ、若い兵が膝をつく。


 「報せにございます!東の道に、軍の旗が見えまする。数はなお遠くて計りがたく、しかし、先立つ斥候の印には、陳公台の名がありました」


 室の温度が一度に冷えた。曹操の軍にあったはずのその名は、城の誰もが知っている。


 棗祗はゆっくりと立ち上がった。几の上には、先日封を割ったばかりの書簡が二巻、並べられている。ひとつは荀彧からの急報、ひとつは張邈からの誘いであった。


 「州の地は、すでに多くが塗り替えられたとて、この城の印はまだ改まってはおらぬ」


 自らに言い聞かせるようにつぶやき、廊に控える吏と兵を見回した。


 「これより、城中の備えをあらためる。門楼ごとに見張りを置き、日夜を問わず交代させよ。女子供と老いた者は、まず安全な所へ移す。そののち、兵と壮丁を分け、民の心が乱れぬよう言を尽くせ!」


 棗祗は外へ出て、城門の石段に立った。風は強く、遠い空には小さな塵が見えている。その先に向かってくるものの名を、彼はすでに悟っていた。


 城門の石段に立った棗祗は、まっすぐ城壁の上へと進んでいく。楼の上へ出るころには、すでに胸の中では備えのための筋道が引かれている。


 城上では、兵が弓と弩を広げていた。棗祗は一人一人を見てゆく。弦の緩んだものには、その場で張り替えを命じ、刃の鈍った矛には砥石を運ばせた。


 「矢は惜しむな。だが、放つ先を違えてはならぬ。城下に集うは、まずは我らの民である」


 門の内側には、避難のために集められた女や子らの列が出来始めていた。老人は若い者の肩を借り、荷をまとめる手は震えている。泣き声を上げる幼子もあったが、そのたび、母が口を押さえた。


 「城の北の学舎と、南の倉の裏を、まず避難の場とせよ。病を抱えた者には、薬舎の空きをあてるがよい。家財をすべて運ぼうとすれば足が鈍る。命を先に運べと伝えよ」


 吏たちが走り散ると、棗祗は石垣に手をかけ、城外を見下ろした。東の道には、先ほどよりも濃い土煙が立ちのぼっている。まだ旗の色は見分けがつかぬが、整然とした列で押し寄せてくるさまから、ただの賊軍ではないことが知れた。


 「公台殿、何故だ」


 胸にその名を置きながら、棗祗は城の内へと向き直る。


 「里正には、戸ごとに人数と持ち出した穀を記させよ。倉に余地を開け、今夜までに新たな配り方を改める」


 軍の倉と民の倉。二つの倉の間で、秤の皿のように数を量る日々は、すでに始まっている。だが今は、その皿に戦の重みがさらに積み足されようとしていた。


 広場では、民が輪を作っている。不安げな声の中で、棗祗は石段を下り、彼らの前に立った。


 「聞け。この城が破れれば、畝も家も川も、ふたたび誰のものとも知れぬ地となる。だが、城を守り抜けば、この冬の糧も、来年の種も、ここに残る」


 顔を上げる者が増えた。痩せた頬にひび割れた手。棗祗はその一つ一つを見渡した。


 「我らは、剣を振るう者のみで城を守るのではない。戸ごとに火を絶やさず、倉を守り、心を乱さぬ者こそ、この城の石垣である。恐れに身を任せるな」


 言を終えるころ、遠くで微かな鼓の音が聞こえ始めていた。城上の兵が顔を上げ、東の空をにらむ。土煙の向こうに、旗の群れが続いていた。


 鼓の音は、次第に近づきながらも、城へまっすぐ向かっては来なかった。土煙は川筋の方へと流れ、やがて城上からその尾を追うことが出来るようになる。


 「進む先が違う」


 門楼の兵が声を上げた。棗祗もまた、石垣に手をかけて目を凝らした。東から上がった塵は、北へ折れ、川をさかのぼるようにして移ろっている。


 やがて、別の方向から、揃った列が見えた。中央に掲げられた旗には、大きく程の字が翻っている。


 「味方にございます!程仲徳殿の騎に相違ありませぬ!」


 叫ぶ声に、城上の空気が一度息を吐いたように和らいだ。棗祗はすぐに門下へ降り、吏に命じて外城の門を開かせる。


 土埃にまみれた馬が駆け込み、その先頭に、痩せた顔に骨ばった眼を光らせた背の高い男が乗っていた。程昱ていいくであった。


 「よくぞ持ちこたえておられた」


 馬から降りると、程昱は棗祗の前に進んで言った。その目はすでに城と兵の数、門の固さと倉の位置を量っている。


 「文若殿より、東阿と范のことを託された。陳宮の軍は、倉亭津そうていしんにて川を渡らせぬよう断ち切っておる。ひとまずは安心召されよ」


 棗祗はうなずいた。


 「ここへ向けては進まぬと」

 「容易には参れますまい。范のきん県令は、妻子を呂布にとられながらも、なお曹将軍の旧恩を忘れてはおりませぬ。范を攻めた汎嶷はんぎょくは、すでに靳県令が討ち取られました。ゆえに、東阿を求めようとすれば、まず范を背に持たねばならず、そのような愚を陳宮は犯しますまい」


 程昱の言の裏には、策の綱が幾重にも張り巡らされている。


 「ここはここで守りを固めます。軍と民との倉も分けてあります」


 棗祗が答えると、程昱はわずかにうなずいた。


 「よろしい。兗州従事の薛悌も、鄄城にて兵と穀をまとめております。三城がそれぞれの務めを果たせば、曹将軍の旗が戻る日まで、この州は守られましょう」


 その日から、東阿の城には新たな陣が加わった。程昱の騎は城外と川辺を巡り、棗祗は吏と民を励ましつつ、門と倉を見回る。遠くではなお鼓と角の音が入り乱れ、州の地はうねり続けていたが、東阿・范・鄄城の三つの城は、その渦の中にあって夜を照らす灯たらんと立ち続けた。


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