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02 急使

 東阿県令となって数年、棗祗の几の上には昨夜からの務めの札が重なっていた。筆はすでに濡れ、墨の面に映っている。


 そこへ、一人の吏が簿を抱えて入ってきた。歳のいった男で、肩に力を入れながら几の前に進み出る。


 「東の里の戸数にございます。戦乱で散った者どもも、ようやく戻り始めました」


 棗祗は黙って簿を受け取り、行を追った。数字の乱れたところを指で軽く押さえる。


 「この家は、去年の洪水で田を失ったはずだ。子の数が増えておる。里正りせいを呼び、訳をただせ」

 「お任せください」


 棗祗はうなずき、別の簿に手を伸ばした。乱が続けば、人の心は自らを守る方へ傾く。


 戸口で履の音がして、今度は若い吏が書簡と小さな箱を抱えて入ってきた。印と封泥を納めた箱である。


 「昨夜、鄄城けんじょうより使いが参りました。曹将軍の遠征の由にて」


 棗祗は筆を置き、書簡を取り上げた。曹操の名を示す印が押されていることを確かめ、封泥を割る。


 『徐州に兵を発す。兗州えんしゅうの諸県は、それぞれ城を固め、糧と兵を蓄えよ。』


 読み終えると、棗祗は顎に手を当て、わずかに唸った。黄巾の乱以来、剣と火が土地を巡るのは珍しくない。だが城を預かる者には、その一行一行が民の腹と命につながっている。


 「東の倉と西の倉の札を持て」


 棗祗は若い吏に向かって言った。


 「軍用と民用を改めて分ける。兵の糧を欠かせば城はもたぬ。だからといって民の糧を奪うようでは、城の心がもたぬからな」


 若い吏は、真面目な顔でうなずいた。将軍たちの名は遠いが、それでもこの痩せた県令の声は信じている。


 命を言い終えると、棗祗は腰を上げた。


 「午の刻までに、城内の戸数と、今ある穀の総を洗い出せ。流民の名も漏らしてはならんぞ」


 日ごと変わらぬ調子の命であったが、吏たちはそれを聞くと、胸の不安が少し引いてゆくのを覚えた。乱れた世にあって、この吏舎の中は筋が通っている。そのことが、彼らを支えていた。


 棗祗は吏舎を出て、敷石の街路に足を踏み入れた。市はまだ立たぬ刻だが、行き交う人の姿は少なくはない。戦の続く世にあっても、腹を満たさねば働きも出来ぬ。薪を負う者や空の籠を抱えた女、すきの刃を研ぎに出す老農の姿が見える。


 「県令様のお出ましだ」


 誰かのささやきが走り、道の端に寄って礼をとる者が増えた。棗祗は足をゆるめ、ひとりひとりの顔を見て歩いた。そのどれもが、札の上の数より価値がある。


 城門をくぐり外の田へ出ると、かつては荒れていた地が、今では畝を引かれ、青い麦の芽が並んでいた。あちこちに粗末な小屋が建ち、遠くから移ってきた者どもが家族で身を寄せている。


 「県令様!」


 畦の上から、ひとりの男が手を上げた。顔に古い傷のある壮年の農夫である。背後では、子らが鍬を握って土を返していた。


 「おかげで、この冬は飢えずにすみましたよ」


 棗祗は足を止めた。


 「田は足りているか」

 「はい。荒れ地をわけていただきました。租も重くはございません。ここを捨てろなどと申す者はおりませんよ」


 男の言葉に、近くの者たちもうなずいた。流れ流れてきた者ほど、居場所を得たありがたみを理解している。地の力と、人の手とをつなげてやれば、乱世といえども、ひとつの鍋の火は守れる。


 棗祗は、畝を踏まぬよう道を選んで歩き、いくつもの小屋の前を通った。戸口から顔を出した女が、深く頭を下げる。


 「倉からお出しくださった粟で、子らは冬を越せました」

 「倉はみなのものである。惜しむべきは、積んだまま腐らせることだ」


 そう答え、視線を川の方へ移した。城の北を流れる川岸には、小さな倉が二つ並んでいる。一つは軍の倉、一つは民の倉であった。


 川べりの小道を進み、見張りの兵に合図して戸を開けさせる。中は薄暗く、穀の匂いがむっと鼻をうつ。積まれた袋の標には、それぞれ印が記されている。


 「こちらが軍の分、こちらが里ごとの分でございます」


 案内役の吏が、汗を拭きながら説明した。


 「軍の倉を満たせばよいと考える者もあろうが、くれぐれも民の倉を空になどしてはならぬぞ」


 棗祗は、札の文字を指先でなぞった。


 「剣を持つ者のみが戦っているのではない。畝を守る者、子を抱く者もまた、この城を支えておるのだからな」


 川面から風が吹き込む。倉の戸口に立ちながら、棗祗はうなずいた。この地に集った者たちの命が、いくつもの袋の形になって積まれている。守るべきものが何かを、改めて胸に言い聞かせた。


 川の倉を見回ってから、棗祗はふたたび城内へ戻った。陽は中天には遠く、門楼の上では兵が弓を改めていた。その景色の向こうに、遠く動く旗の群れがあることを棗祗は忘れていない。


 吏舎に戻ると、戸口で伝吏が待っていた。衣の裾には土がはね、息が切れている。


 「鄄城より急使にございます!」


 棗祗はうなずき、几の前に坐った。差し出された書簡は、馬上で揺られたのか、端がわずかに乱れている。封泥には兗州牧の印と、荀文若の名があった。


 『張邈ちょうばく陳宮ちんきゅう、謀反し、呂布りょふを引き入れ州を揺がす。城を預かる者は、それぞれ民を安んじ、危急に備えられよ。』


 読み終えると、棗祗は書簡を几の上に置き、目を閉じて一度息を大きく吸った。曹操の旗が州外にある今、兗州の地を守るのは簡単なことではない。


 そこへ、戸の外で声がした。


 「東郡の張孟卓様の書簡をお届けに参りました」


 別の伝者が、封泥も新しい書簡をささげ持って立っていた。印は張邈のものである。棗祗は黙って封泥を割った。


 『曹操は残忍にして信なく、民心すでに離る。今、呂奉先を推して兗州の主と為さんとす。棗令もまた旧交を思い、共に義に赴かれよ。』


 字は大きく、勢いがあった。だが棗祗の眼は、行の途中で止まった。黄巾の乱を鎮め、この地に倉を建てさせたのは誰であったか。荒れ地を畝に変える間、刃を収める場を与えたのは誰であったか。胸に浮かぶ答えは、一つしかない。


 「伝吏でんりには、返す言もあるまい。この城は、今までどおり曹将軍の城と告げよ」


 そう言うと、伝者は頭を下げた。棗祗は立ち上がり、廊に控えていた吏たちを呼び集める。


 「今より、東阿は非常の備えを取る!城門を改めよ。昼は出入りをあきらかにし、夜は刻ごとに角を鳴らせ。兵には器を点検させ、里ごとに壮丁そうていの名をあげさせよ」


 吏たちは顔を見あわせた。張邈の名、呂布の名は、すでに城内の噂に上っている。だが、その前に立つ県令の声は揺れなかった。


 「民には恐れを広めるな。倉に穀あり、兵に器ありと告げよ。城を守るは我らの務め、土を捨てるは恥と思え!」


 言い終えると、棗祗は廊の端へと歩み出た。城壁の向こうには、田畑と川が広がっている。その空の下で、州の地図は塗り替えられつつあった。


 ここを守り抜くかどうかで、この地のヂョウの濃さが決まる。


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