第0話 洒落た名前の試練
紘和60年 10月14日(月)
自転車を降りて押す。わたしの脚力じゃ、この坂は無理だったみたい。
もっと勢いをつけて登らないとだめだわ。
「ふう‥‥」
わたしは坂道を上りきり、額の汗を拭う。このみなと市は平坦な三角州の扇状地で、土地の起伏はほとんどない。わたしが上ったのは、丘とは言えないほどの、2級河川の土手だった。
秋とはいえ、今日の日差しは、まだ暑かった。
咲見暖斗。先日から彼と取り組み始めたこと。
【キャトルエピス】
登ってきた坂道を振り返る。
川沿いの土手に茂る木々が色づき、秋の気配を感じさせる。
ああ、今年はずっと戦艦の中だったから。普通に夏を感じる前に始業式だったわ。
本当に、あっという間の夏休みだった。もう。
一生、あんな体験はしないんだろうな。
そのまま土手を歩いた。‥‥あ、彼が志望する高校の白い校舎が、民家の屋根の向こうに見える。
【キャトルエピス】
佛国の言葉で、「4種のスパイス」という意味だそうよ。
定番の4種の香辛料を混ぜ合わせた、一般的で普遍的な味。
紘国語で一番近い言葉は、「七味とうがらし」かな。
あ、スパイスってイメージを外せば、紘国風に「塩、醤油、酒、みりん」みたいな感じ?
【キャトルエピス】
「なんでこんなお洒落な名前なの? 一体誰が考えたのかな?」
わたしの口からそう、思わず声が出た。
「あ、今から家?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥うん」
交差点の信号待ちで、彼が来た。
わたしを心配してくれる。
久しぶりの実家。
正直帰りづらい。
「あ、あの」
「なに?」
並んで自転車を引いていると、彼に話しかけられた。
「正直、僕は中学生で、大人にどうこう言えるかはわかんないんだけど」
「うん」
「大袈裟なことは言えなくて、できる範囲でしかなんだけど」
「うん」
「何かあったら教えて。僕なりに考えたり、悩んだりはできるから」
「‥‥‥‥‥‥‥‥うん」
言いそびれてしまった。「ありがとう」の言葉を。
彼。
咲見暖斗、くん。
彼とわたしとの関係は、こんな言葉で綴られる。
中学校のクラスメイト。
かつての戦友。
かつての、医者と患者。
世界の美しさを、教えてくれた。
ぬくもりを、分けてくれた。
助けてくれて、救けてくれた人。わたしが、介けた人。
そして、これから。




