第11話 あと一つ
「美咲だけなんだよ」
直人が言った。美咲は、描いていた線を止めた。
「何が?」
「まだなんだ」
「だから何が」
電話の向こうで、直人が少し黙った。午後十一時十二分。美咲は自宅の仕事机に向かっていた。明日の午前中までに出すラフが、まだ三枚残っている。
「直人」
『うん』
「今何時だと思ってる?」
『十一時くらい』
「十二分」
『細かいな』
「仕事中なの」
『ごめん』
「で、何」
『いや、だったら明日でいいよ』
「気になるじゃん」
『仕事終わってからでいい』
「今言って」
『でも』
「直人」
『うん』
「今言わなかったら、気になって仕事できない」
少し間があった。
『……神様』
美咲は眉を寄せた。
「神様が何?」
『美咲だけ、ちゃんと言ってない』
「何を?」
『信じるって』
美咲はしばらく黙った。それから、
「ああ」
と声が出た。八年前。絵の仕事だけでやっていけるようになった頃。
直人に聞かれた。
――これで神様、信じる?
自分は答えた。
――そうかもしれないね。
美咲は椅子にもたれた。
「そこ?」
『うん』
「今さら?」
『今さらって』
「八年前の話でしょ」
『七年七か月くらい』
美咲は目を閉じた。
「怖いよ」
『何が?』
「そこまで覚えてるの」
『だって大事だから』
まただ。美咲は目を開けた。
「直人」
『うん』
「『そうかもしれない』じゃ駄目なの?」
『駄目っていうか』
「駄目なんだ」
『いや、そうじゃなくて』
「じゃあ何」
直人が言葉に詰まる。美咲は待った。
『ちゃんと聞いときたいんだ』
「なんで?」
『……』
「四つとも叶ったんでしょ。哲也も、浩介も、香織も、私も」
『うん』
「じゃあ何が足りないの?」
電話の向こうで、直人が息を吸った。
『信じること』
美咲の顔から、少しずつ表情が消えた。
『願いが叶ったら、信じられるだろ』
「……」
『そういう約束だったから』
美咲は何も答えなかった。約束。また、その言葉だった。
*
翌日。美咲は哲也の店にいた。開店前。
哲也は厨房で玉ねぎを切っている。
「で?」
包丁を動かしたまま聞く。
「何て言った」
「何も」
「何も?」
「仕事あるから切った」
「正解」
「でも」
「でも?」
美咲はカウンターに頬杖をついた。
「なんか引っかかって」
哲也が手を止める。
「何が」
「直人」
「それは昔から引っかかる奴だろ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何」
「焦ってる」
哲也が美咲を見る。
「焦ってる?」
「うん」
この前、香織が話していたことを思い出す。
――夢は変わっていい。
――願ったから。
そこへ昨夜の直人の声が重なった。
――美咲だけ、ちゃんと言ってない。
「昨日ね」
美咲が言った。
「私だけ『信じる』って言ってないって」
哲也の眉が動く。
「……そこまで数えてんのか、あいつ」
「みたい」
「俺たちはもう言った。残ってるのはお前だな」
「私は『そうかもしれない』だからね」
哲也は吹き出した。
「一番ずるい」
「前も言われた」
包丁の音が、また一定に続く。
「で、どうすんだ」
「分かんない」
「信じるって言えばいいだろ」
「簡単に言うね」
哲也の包丁が止まった。
「俺のときは、店ができて、あいつが嬉しそうで。だからまあいいかと思った」
「うん」
「でも今のは」
哲也が眉を寄せる。
「確認作業みてえだな」
美咲は黙った。再び、包丁の音だけが一定に続いた。
昨日の「美咲だけ」が、耳に残っている。
「あと一人」
美咲が言った。
「何?」
「直人、最近ずっと言ってたでしょ」
哲也の手が止まった。
「あと一人」
「ああ」
「私が『信じる』って言えば、それでいいのかな」
哲也が美咲を見る。
「それで、あいつは満足すんのか?」
「分からない」
「でも願いは、俺の店で四つとも叶っただろ」
「うん」
「その先に、まだ何かあるってことか」
「……うん」
哲也が包丁を置いた。
「……何する気なんだ、あいつ」
二人とも黙った。
*
夕方。五人のグループに、直人からメッセージが来た。
『今週の日曜、空いてる?』
最初に返したのは浩介だった。
『内容による』
香織。
『夜なら』
哲也。
『店ある』
直人。
『閉店後でもいい』
哲也。
『俺を基準にすんな』
美咲は返さなかった。少しして、直人から個別に来た。
『昨日はごめん』
美咲は画面を見た。
『何が?』
『仕事中に電話した』
そこだけか。美咲は笑ってしまった。
『日曜の話、何?』
既読。返事が来るまで少しかかった。
『みんなに話したいことがある』
美咲の指が止まった。
『あと一人のこと?』
既読。一分。二分。
返事。
『うん』
それだけだった。
*
日曜日。結局、哲也の店に集まった。閉店後。
「ここ集会所じゃねえんだけど」
哲也が言った。
「いいじゃん」
直人が答える。
「売上に貢献しろ」
「何か頼むよ」
「閉店後だ」
「じゃあ明日」
「定休日」
「明後日」
「毎日来るな」
いつものやり取り。いつもの五人。
直人は、古い布製のショルダーバッグを膝から下ろした。
中から小さな箱を出した。
「何それ」
香織が聞く。
「昔のやつ」
蓋を開ける。写真。メモ。
錆びたキーホルダー。色褪せた紙。小学生の頃のものばかりだった。
美咲が笑う。
「まだ持ってるの?」
「うん」
「ほんと何でも取ってるね」
浩介は笑わなかった。直人が一枚の紙を取り出した。折り目が何本もついている。かなり古い。
「これ」
哲也が覗く。
「何だ?」
「願ったやつ」
空気が変わった。美咲が手を伸ばす。
「見せて」
「字汚いよ」
「子供なんだから当たり前でしょ」
紙には、子供の字が並んでいた。香織。美咲。
浩介。哲也。名前と、その横に短い言葉。
香織の横。
『しあわせなかぞく』
美咲。
『えをかくしごと』
浩介。
『せかいをみる』
哲也。
『じぶんのみせ』
哲也が言った。
「四人じゃん」
直人が顔を上げる。
「うん」
「お前のは?」
「ないよ」
「は?」
「俺、決められなかったから」
美咲が直人を見る。三十四年前の、秘密基地。
――次、直人。
――何したい?
――分かんない。
確かに、そうだった。香織が紙を見る。
「じゃあ、ずっと言ってた『あと一人』って何?」
直人は答えなかった。哲也の顔から、少しずつ冗談が消える。
「直人」
「うん」
「願いは四つしかねえぞ」
「分かってる」
「だったら」
哲也が言った。
「美咲が信じたら、それで終わりなのか?」
直人は紙を見た。それから。美咲を見た。
「美咲」
「……何」
「神様、信じる?」
哲也が顔をしかめた。
「おい」
直人は哲也を見ない。美咲だけを見ている。
「ちゃんと聞きたい」
美咲は、紙に並んだ四つの名前を見た。
それから直人を見る。
「私が信じるって言ったら」
美咲は聞いた。
「どうなるの?」
直人の指が、親指の爪に触れた。いつもの癖。
「何が?」
「その先」
「……」
「何するの?」
直人は答えなかった。哲也が言う。
「それ俺も聞きたい」
香織も直人を見る。
「私も」
浩介だけが、紙を見ていた。
「直人」
美咲は言った。
「何するつもり?」
「まだ」
「まだ?」
「全部揃ってないから」
「だから私が信じたら?」
直人の喉が動いた。
「話す」
「今じゃ駄目?」
「駄目」
「なんで」
「先に揃えたい」
「何を」
直人は、今度ははっきり言った。
「五人」
誰も喋らなかった。
*
「五人って」
哲也が言った。
「俺ら?」
「うん」
「何を揃えるんだよ」
「信じること」
「だからその先は何なんだよ」
「揃ったら話す」
哲也が苛立って立ち上がる。
「面倒くせえ!」
「哲也」
香織が止める。
「順番逆だろ!」
哲也は直人を指した。
「何するか分かんねえのに、先に信じろって何だよ!」
直人も立ち上がった。
「別に何かやらせようとしてるわけじゃない」
「だったら言えよ!」
「まだ言えない」
「なんで!」
直人が黙る。哲也はさらに言おうとした。美咲が止めた。
「哲也」
「でもよ」
「いい」
美咲は直人を見る。
「分かった」
直人が顔を上げる。
「美咲?」
「信じるよ」
店の中が静かになった。直人は、すぐには反応しなかった。
「神様」
美咲は言った。
「信じる」
香織が美咲を見る。哲也も。浩介も。
美咲には、全員の視線が分かった。でも続けた。
「私の願い、叶ったから」
直人の目が、わずかに潤んだように見えた。
「本当に?」
美咲は、古い紙の自分の名前を指先で一度叩いた。
「そこまで覚えてた人に、今さら何回言わせるの」
直人はゆっくり息を吐いた。
「そっか」
それまでで一番、大きく肩の力が抜けた。
「これで」
直人が言った。誰も動かない。
「これで全員だ」
哲也の顔が変わる。香織が息を止める。美咲は直人を見た。浩介だけが、目を閉じた。
*
「じゃあ話せ」
哲也が言った。
「約束だろ」
直人は頷いた。
「うん」
鞄の中へ手を入れる。古い写真を出した。六人。
秘密基地の前。真ん中に、湊。直人は写真をテーブルに置いた。四人の表情が変わる。
「今度」
直人が言った。声が、少し震えていた。
「みんなで帰ろう」
香織が聞く。
「どこに?」
直人は答えた。
「秘密基地」
浩介が顔を上げる。
「まだあるか分かんないぞ」
「探す」
「山も変わってる」
「それでも」
「御神体だって」
浩介は言いかけて、止まった。直人が浩介を見る。
「あるんだろ?」
浩介は答えない。
「この前、倉庫にあった」
「……」
「見つけたよ」
浩介の表情が固まる。哲也が写真を指した。
「で」
直人を見る。
「なんで今さら基地に行くんだよ」
直人は、湊の顔へ指を置いた。
「やることがあるから」
「何を?」
直人は、少し笑った。
「次に話す」
哲也が立ち上がった。
「お前な!」
香織が笑った。
「そこまで言ったら言いなさいよ!」
美咲も、思わず笑ってしまう。
「直人、本当にそういうところあるよね」
「ごめん」
「今言って」
「ちゃんと話したいんだ」
「何が違うの?」
「場所も含めて」
美咲の笑顔が消えた。
「場所?」
「うん」
直人は写真を見た。
「六人だった場所で」
その言葉だけで、誰も続きを聞けなくなった。
*
帰り道。美咲と香織が並んで歩いた。少し前を哲也。
さらに前を浩介が歩いている。直人は店に忘れ物をしたと言って、まだ残っていた。香織が小さく聞いた。
「今の、信じたの?」
美咲は少し考えた。
「何を?」
「神様」
美咲はすぐには答えなかった。
「少なくとも」
やがて言った。
「私が忘れたことを、あの人が覚えてたのは本当だから」
香織はそれ以上聞かなかった。少し前で、哲也が振り返る。
「お前ら遅えぞ!」
「聞こえてるよ!」
香織が叫ぶ。浩介は振り返らなかった。
*
店では。直人が一人で、六人の写真を見ていた。
「これで全員だ」
もう一度、小さく言った。哲也。美咲。
香織。浩介。そして自分。
五人。条件は揃った。直人は、写真の湊を見る。
十歳。笑っている。三十四年間、変わらない顔。
直人の指が震えた。
「待たせたな」
誰もいない店で、呟いた。
「今度こそ」
写真の湊は、何も答えない。それでも直人は、確信していた。ようやく。三十四年前の続きを、始められる。




