第10話 信じていない
「直人は?」
香織が店に入るなり聞いた。
「呼んでない」
哲也が答えた。香織が足を止める。
「なんで?」
「今日はあいつがいないほうがいい」
カウンターには、すでに美咲が座っていた。浩介もいる。閉店後。
入口には『CLOSED』の札。客はいない。厨房では哲也が余った料理を皿に盛っている。香織は三人を見回した。
「何、怖いんだけど」
「秘密会議」
浩介が言った。
「直人抜きの?」
「そう」
「感じ悪くない?」
「俺もそう言った」
浩介が答えた。美咲も続ける。
「でも哲也がどうしてもって」
「俺のせいにすんなよ」
「哲也が呼んだんでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ哲也のせいじゃん」
哲也は皿を置いた。
「食え」
「話そらした」
「余りもんだけどな」
香織が椅子に座る。
「それで?」
「先に食おう」
「気になるじゃん」
「飲みながらでいいだろ」
浩介がビールを開ける。
「じゃ、直人に内緒の会に乾杯」
「言い方悪い」
美咲が笑った。
「何て言えばいい?」
「別に乾杯しなくていいでしょ」
「乾杯したいんだよ」
「じゃあ哲也の店が一か月続いたことに」
香織が言った。哲也が睨む。
「まだ一か月じゃねえ」
「もうすぐでしょ」
「縁起悪いから日数数えるな」
「じゃあ何に乾杯するの?」
少し考えて。哲也がグラスを上げた。
「今日も潰れなかったことに」
「それ毎日できるね」
美咲が言う。四人でグラスを合わせた。五人分ではなかった。
*
食べ始めてしばらくは、普通の話をした。店のこと。香織の娘のこと。
美咲の仕事。浩介が次にどこへ行くか。哲也の店に最近来る、妙に長居する客の話。いつもなら、そこに直人がいる。
人の話を聞いて、必要でもないのに覚えている。
「それ前も言ってたよね」
などと、本人が忘れていることまで拾ってくる。今日は、その声がない。美咲が空いている椅子を見た。
「変な感じ」
「何が?」
香織が聞く。
「直人いないの」
「ああ」
「五人で集まるの慣れたからね」
浩介が言う。哲也が皿を置いた。
「だから今日呼ばなかったんだよ」
三人が哲也を見る。
「そろそろ一回、話しといたほうがいいだろ」
「何を?」
香織が聞く。哲也は少し黙った。それから言った。
「神様、信じてる奴いる?」
誰も答えなかった。哲也が三人を見る。
「いないよな?」
美咲が小さく笑った。
「哲也、急だね」
「いいから」
「私は信じてないよ」
美咲が答えた。
「香織」
「私も」
「浩介」
浩介はビールを飲んだ。
「俺?」
「お前しか残ってねえだろ」
「どうだろうねえ」
「そういうのいいから」
「何が?」
「信じてんのか、信じてねえのか」
浩介は少し笑った。
「信じてないよ」
哲也は腕を組んだ。
「だよな」
香織が言った。
「それ確認したかったの?」
「まずな」
「まず?」
哲也は全員を見る。
「じゃあ、なんで全員あいつに嘘ついてんだよ」
静かになった。
*
「哲也だって言ったじゃん」
美咲が言った。
「何を」
「信じるって」
「言ったよ」
「じゃあ人のこと言えないでしょ」
「だから俺も含めて聞いてんだよ」
哲也はグラスにビールを注いだ。
「俺は分かりやすい。店だよ」
哲也は厨房を見た。直人が物件を持ってきて、人を紹介して、何度やめようとしてもしつこく背中を押した。結局、自分も本気になって店ができた。
「そしたら、あの顔で聞くんだよ。『これで神様、信じる?』って」
「どんな顔?」
香織が聞く。哲也はグラスを見た。
「嬉しそうな顔。期待してる顔」
「あそこで『信じねえ』って言えるか?」
香織が笑う。
「哲也なら言えそうだけど」
「俺でも無理だった」
「優しいねえ」
浩介が言った。
「お前それ前も言ったな」
「哲ちゃん優しいから」
「殺すぞ」
「神様にお願いする?」
「そのネタもういい」
四人が笑った。でも、すぐに静かになった。哲也が美咲を見る。
「お前は?」
「私?」
「なんで信じるって言った」
美咲は少し考えた。
「正確には、信じるって言ってないよ」
「は?」
「『そうかもしれないね』って言った」
哲也が呆れる。
「もっとずるいじゃねえか」
「そうだね」
美咲は笑った。
「でも意味は同じ」
「何で?」
美咲は指先でグラスを回した。
「私が絵の仕事を始めたとき、直人が本当に喜んでたから。それに、昔の自分がやりたかったことを誰かがずっと覚えててくれたのが、私自身も嬉しかった」
一度しまって、もう自分には関係ないことにしていた夢を、直人だけが覚えていた。
「だから、その日はそれでいいかなって思った」
哲也が鼻を鳴らす。
「甘いな」
「哲也に言われたくない」
「俺はちゃんと否定してる」
「直人がいないところでね」
哲也が黙った。浩介が吹き出した。
*
「香織は?」
哲也が聞く。
「私?」
「お前も信じるって言っただろ」
香織はため息をついた。
「言ったよ」
「何で」
「同じ」
「雑だな」
「直人が喜ぶから」
香織は言った。
「それに」
少しだけ声が変わる。
「私のは、説明しづらいんだよね」
「家族?」
美咲が聞いた。
「うん」
香織は笑った。
「私のは、いつ叶ったのかも分からない。結婚した日でも、子供が生まれた日でもない。理想通りの家族じゃないけど、ある日『これでいいな』って思っただけ」
「それを直人に言ったら『じゃあ叶った』って勝手に認定された」
浩介が笑う。
「あいつらしいな」
香織は首を振った。
「私が幸せだと思えたことと、神様が願いを叶えたことは別。でも直人の中では、そこが同じなんだよね」
「何が」
「私が幸せなら、神様が叶えた」
香織が指を折る。
「美咲が絵描いてたら、神様が叶えた」
もう一本。
「浩介が外国行ったら、神様が叶えた」
さらに一本。
「哲也が店持ったら、神様が叶えた」
四本。全員がその指を見た。香織は手を下ろした。
「何でも神様」
哲也が言った。
「便利すぎんだよ」
「でも」
美咲が言う。
「昔はあそこまでじゃなかったよね」
空気が変わった。浩介の手が止まった。
*
「子供の頃?」
香織が聞く。
「うん」
美咲は遠くを見るような目をした。
「神様の話はしてたけど」
「遊びだっただろ」
哲也が言う。
「哲也なんか一番信じてなかったし」
「今も信じてねえよ」
「湊は面白がってた」
香織が言った。浩介が笑う。
「何でも願ってたもんな」
「給食のプリン増やせとか」
「テストなくせとか」
「浩介ハゲろ、とか」
「それは願ってねえだろ」
「言ってたよ」
「神様のおきてで禁止した」
哲也が笑う。
「お前が作ったルールだろ」
浩介の笑顔が、ほんの一瞬止まった。
「でもさ」
美咲が言った。
「昔の直人って、むしろ湊に付き合ってるほうだったよね」
「そうそう」
香織が頷く。
「湊が『願おうぜ』って言ったら一緒にやる感じ」
「自分から神様神様って言う奴じゃなかった」
哲也も言う。誰も、次の言葉をすぐには口にしなかった。やがて香織が言った。
「……湊が死んでからだよね」
浩介がグラスを置いた。小さな音がした。
*
哲也は何も言わない。美咲も黙っている。香織は、言ってしまったことを少し後悔した顔をした。
「ごめん」
「何が」
哲也が聞く。
「いや……」
「別に間違ってねえだろ」
美咲が静かに言った。
「私もそう思う」
三人が浩介を見る。浩介はビールのラベルを剥がしていた。
「浩介は?」
「何が」
「そう思わない?」
美咲が聞く。浩介は顔を上げた。
「……まあ」
曖昧に答えた。
「そうかもな」
哲也が言う。
「あいつだけだもんな」
「何が?」
「ずっとあの頃の話してんの」
香織が眉を寄せた。
「私たちだってするよ」
「同じじゃねえだろ」
哲也は言った。
「俺らは懐かしいから話す」
「うん」
「直人は違う」
美咲が哲也を見る。
「どう違う?」
哲也は少し考えた。
「現在形なんだよ」
誰も動かなかった。
「秘密基地も、願いも、神様も。あいつにとって全部まだ終わってねえ」
美咲がゆっくり頷いた。香織は、少し前に直人と電話で言い争った夜を思い出していた。
――昔の願いって、何なんだよ。
――願ったことに意味ないじゃん。
あの声。
「私」
香織が言った。
「この前、直人と喧嘩した」
「珍しいな」
浩介が言う。
「夢は変わっていいって言ったの」
「それで?」
「怒った」
哲也が眉を上げる。
「直人が?」
「うん」
「どのくらい」
「声荒げるくらい」
三人が顔を見合わせた。美咲の表情が曇る。
「何て?」
「願ったからって」
「それだけ?」
「それだけ」
香織は言った。
「願ったから、叶えなきゃいけないみたいに言うの」
哲也が腕を組む。
「やっぱおかしいだろ」
「おかしいって言い方は嫌」
美咲が言った。
「じゃあ何だよ」
「……危ない」
「同じだろ」
「違う」
美咲は少し強く言った。
「直人は誰かに迷惑かけたいわけじゃない」
「分かってるよ」
「本人は助けてるつもり」
「実際助けてる」
哲也が言う。
「俺も助けられた」
「私も」
香織も言う。浩介は何も言わない。
「だから面倒なんだよ」
哲也が言った。
「全部悪いなら止めりゃいい」
「うん」
「でも俺、店やってよかったと思ってる」
美咲が頷く。
「私も絵の仕事してよかった」
香織が言う。
「私だって、自分の家族を見直すきっかけにはなった」
浩介が笑う。
「俺なんか世界見せてもらったしな」
哲也が浩介を見る。
「それは自分で行ったんだろ」
「そうだけど」
浩介は言った。
「最初にケツ蹴られなかったら、今も行ってなかった」
哲也は店の鍵を指で弄び、美咲はグラスの縁をなぞった。香織はスマートフォンを伏せ、浩介は剥がしかけたラベルを丸めた。
誰も、直人の名前を否定しなかった。
*
哲也が新しいビールを開けた。
「だからさ」
全員を見る。
「いつまで付き合う?」
香織がすぐ答えた。
「最後まででしょ」
哲也が顔をしかめる。
「その『最後』が分かんねえから聞いてんだよ」
香織は黙った。
「あと一人、あと一人って」
哲也は言う。
「全員が信じたら何なんだ?」
誰も答えない。
「俺の店で、四つの願いは全部叶った」
「うん」
「なのに、あと一人」
「うん」
「その一人まで信じるって言ったら、あいつ満足すんのか?」
美咲が静かに答えた。
「分からない」
「じゃあ何で最後までなんだよ」
「直人が」
美咲は少し言葉を探した。
「自分で終わりにできるまで」
哲也が美咲を見る。
「何を?」
美咲は答えなかった。哲也が香織を見る。香織も。
最後に。浩介を見る。浩介は、グラスを見ていた。
「浩介」
「何」
「お前、さっきから静かだな」
「そう?」
「そうだよ」
哲也はじっと見る。
「お前だけなんか知ってんじゃねえの?」
浩介が顔を上げた。美咲も。香織も。
浩介を見る。
「何を」
「最後のこと」
浩介は笑った。いつもの、少しふざけた笑い方だった。
「知ってたら苦労しねえよ」
哲也はしばらく浩介を見た。
「ほんとか?」
「何だよ」
「お前、嘘つくとき笑うよな」
浩介の笑顔が止まった。
「昔から」
哲也が言った。数秒。誰も喋らなかった。
やがて浩介は、また笑った。
「四十五にもなって、友達の嘘の癖なんか覚えてんなよ」
「直人ほどじゃねえ」
「そりゃそうだ」
話は、そこで終わった。終わらせたのは浩介だった。
*
十一時を過ぎた。美咲が帰る。香織も。
最後に浩介が立った。
「じゃあ俺も」
「おう」
哲也が片付けを始める。浩介は入口まで行って、振り返った。
「哲也」
「何」
「さっきの」
「何が」
「いつまで付き合う、って話」
哲也は皿を重ねながら答えた。
「うん」
「お前は?」
「俺?」
「いつまで?」
哲也は少し考えた。
「知らねえよ」
浩介が笑う。
「さっき聞いたくせに」
「聞いたけど」
哲也は布巾でカウンターを拭いた。
「まあ」
手を止める。
「途中で帰ったら、あいつ一人で行くだろ」
浩介の顔から、笑みが消えた。
「……だろうな」
「だったら」
哲也は言った。
「そこまではいるよ」
「そこってどこだよ」
「知らねえ」
二人で少し笑った。浩介は店を出た。
*
夜道を一人で歩いた。
哲也の言葉が、何度も戻ってくる。
――お前だけなんか知ってんじゃねえの?
浩介は足を止めた。スマートフォンを取り出し、直人の名前を開く。
何も打たない。
閉じる。
「……まだだ」
誰に言うでもなく呟いた。
信号が青に変わった。浩介はすぐには渡らなかった。
直人が「あと一人」と数える声だけが、耳に残っていた。




