第9話:カビと嫉妬の湿潤地獄(ウェット・ヘル)
「……あー、もう限界だ。これ以上は住居不法侵入ならぬ、住居不法湿潤として訴えたい」
八百万荘の管理人、神代巡は、自室の天井からポタリと滴り落ちてきた謎の雫を、間一髪で避けて盛大なため息をついた。
その雫は、透明なはずなのにどこか粘り気があり、畳に触れた瞬間にじわりと青白い光を放って消えた。
一〇三号室に水の女神・ミナトが入居して三日。アパートの湿度は、おそらく気象観測史上でも例のない『一二〇パーセント』といった測定不能な領域に達している。窓という窓は真っ白に曇り、壁を伝う雫はもはや小川のように床へと注いでいた。
「巡ー! 巡はおるか! 妾のポテトチップスが……妾の魂の友である『のりしお』が、お湯に三分浸したパンのような食感になってしもうた! これを食えというのか、嫌がらせか!」
二階から地響きのような足音を立てて、ジャージ姿のヒノカが階段を滑り落ちるように現れた。その手には、完全に湿気てしおしおになったスナック菓子の袋が、無念の象徴のように握られている。
「ヒノカ様、足元気をつけてください。今、廊下は天然のウォータースライダー状態ですから。……というか、そのポテチ、もう諦めてください」
「諦められるか! 太陽を司るこの妾が、自らの熱気でカビと戦わねばならぬなど、末代までの恥じゃぞ! 見よ、妾の美しい赤髪が、湿気のせいで湿った犬の毛のようにペタンとなっておるではないか! 指通りが悪くて、ブラッシングもままならぬわ!」
「管理人殿、緊急事態だ! 湿気のせいで愛用のマウスパッドにキノコのような異物が自生し、精密なエイムに致命的な支障が出ている! 偵察兵としてのプライドが、この泥濘に足を取られて崩壊しそうだ!」
そこへ、二〇二号室のシグルが、壁を伝いながらカニ歩きで合流してきた。彼女は愛用の模造刀にバスタオルを三枚もぐるぐる巻きにし、必死に水分を拭い取っている。その表情は、極寒の戦場で敗北を知った敗残兵のように悲痛だった。
「さらに深刻な被害を報告する! 今朝、気合を入れて物干し場に干したはずの私の予備の下着が、三時間前より確実に濡れているというのはどういう物理法則だ! これは世界の理に対するバグか!? それとも敵軍による卑劣極まりない生物化学兵器の散布か!?」
「ただの湿気です、シグルさん。あと、その報告を俺にするのはやめてくださいって、何度言えばわかるんですか。俺の心まで湿っぽくなるんで」
俺は頭を抱え、二人(実質、俺と二人の女神)を引き連れて一〇三号室の前に詰め寄った。ドアの隙間からは「ぴちょん、ぴちょん……」と、風情があるのを通り越して、古いダムの底から響いてくるような不気味な水音が聞こえてくる。
「ミナトさーん! 入りますよ! じゃないとアパート全体が巨大なキノコ栽培キットになっちゃう! 俺の部屋の押し入れ、さっき見たらちょっと変な匂いがしたんですから!」
ドアを勢いよく開けると、そこはもはや『部屋』という概念を超越した、完全なる『熱帯雨林の奥地』だった。
視界を遮るほどの深い霧が立ち込める中、ミナトは水浸しの畳の上で、九十九所長が持ってきたビニールプールに浮かんで、優雅に茶を啜っていた。
「あら……皆様、お揃いで。何か、御用でしょうか? 私の部屋、少しばかり湿度が高いようですけれど、お肌にはよろしいですわよ?」
「『何か』ではないわい! この湿気はどういうつもりじゃ! 妾の部屋は今、アマゾンの奥地より過酷な環境になっておるぞ! 湿ったポテチを食う妾の悲しみがお主にわかるか! 髪が! 妾のサラサラな神の髪が、湿った海苔のようではないか!」
「あらあら、太陽の女神様。そんなにカリカリ怒ると、お肌の水分まで蒸発して、シワシワの干し柿になってしまいますわよ? 女神たるもの、私のように、しっとり瑞々しく、潤いを湛えてあるべきですわ。ねえ、管理人さん?」
ミナトはふふっと妖艶に微笑み、水面から出した濡れた腕を、これ見よがしに指でなぞった。その仕草には、脳筋なヒノカやシグルにはない「大人の女のしっとりとした毒」が存分に混じっている。
「ぬ、ぬぬ……! 巡、聞いたか今の! 妾を干し柿扱いしおったぞ、この水妖怪め! お主のせいで、妾の部屋の少年漫画も全部ふにゃふにゃになって、ページがめくれんのじゃ!」
「ミナト殿、貴殿の能力行使は、共同生活の規律を著しく、かつ致命的に乱している! 直ちに大気中の水分を五〇パーセントカットせよ。さもなくば、私がそのプールに高電圧の電流を流す『電撃戦』を開始し、貴殿を強制的に電気分解して気体にするが、いかがか!」
「シグルさん、それ俺の電気代が爆発するし、何よりミナトさんが酸素と水素に分かれちゃうから絶対にやめて! 管理人命令です!」
俺は喧嘩の仲裁に入り、ミナトのプールの横に膝をついた。ズボンがじわじわと冷たい水分を吸い上げて重くなっていくが、もはやなりふり構っていられない。
「ミナトさん。気持ちはわかりますけど、ここは共同生活の場なんです。ヒノカ様はサクサクのポテチと漫画を、シグルさんはカビのないゲーミングデバイスを、俺は……俺の部屋の押し入れに眠る数少ない着替えの平穏を守らなきゃいけないんです。少しだけでいいから、湿気を抑えてもらえませんか?」
「……管理人さんがそう仰るなら、善処します。でも、私……」
ミナトは水の中からぬうっと顔を出し、俺の膝に顎を乗せた。上目遣いで、湿った長い睫毛を揺らしながら、俺を見上げる。
「一人でいると、乾いてしまうんです。ダムで流れを止められたあの日から、私はずっと渇いていたの……。誰かに、こうして『触れて』もらっていないと、私はいつか流れに呑まれて、霧になって消えてしまいそうで……。ねえ、管理人さん。私の重すぎる水分、あなたが受け取ってくれますか?」
「なっ……! お主、どさくさに紛れて何をしとるんじゃ! 巡の膝は、妾が昼寝をする際に頭を乗せる指定席なのじゃぞ! その、しっとりした顔で誘惑するのをやめろ!」
「不敬なり! 主殿への物理接触、および膝枕行為は、厳格な承認制となっている! 順番を待て、この天然水め! 私はまだ、一度も膝枕を申請して受理されていないというのに!」
狭い一〇三号室で、火、水、鉄の女神たちが、一人の管理人を巡って、文字通りの火花と湯気と冷気を激しく散らし始めた。
三人の神気が混ざり合い、部屋の湿度はさらに上昇していく。
「……あの、皆さん。とりあえず、全部屋の換気扇を全力で回しましょう。あと、ミナトさん。膝から退いてもらえます? ズボンがもう、バケツを三杯ひっくり返したくらい濡れてるんで」
「あら、失礼。でも管理人さん、お顔が少し赤いですわよ? 湿気のせいで逆上せちゃったかしら。それとも……私に触れられて、内側から熱くなったのかしら?」
「……全っ部、湿気のせいです! 換気だ、換気をしてくる!」
俺の叫びは、立ち込める深い霧の中に虚しく吸い込まれていった。
家計簿には『除湿機二台目追加購入』および『カビ取り剤・業務用』という新たな赤字が刻まれ、管理人の心は、明日への不安で土砂降り模様だった。




