第10話:八百万荘の穏やかな朝。ここは、俺たちの居場所だ
朝の光が、八百万荘の古びた縁側の隙間から、まるで塵を黄金の粒に変えるかのように差し込んでいた。
管理人の俺、神代巡の一日は、まだ世界が眠りについている午前五時三十分、三つの異なる、そしてあまりに強烈な「神気」が混ざり合う気配を感じ取ることから始まる。
かつての俺にとって、朝はただの「絶望の更新」でしかなかった。枕元に立つ霊の囁きで目を覚まし、鏡に映る不健康なクマを見て、今日という日をどうやり過ごすかだけを考える日々。しかし、今の俺には、二度寝を貪る余裕さえ与えられない。
「……巡ー。巡はおるか……。妾の喉が、干からびた古文書のようになってしもうた。至急、キンキンに冷えた『おれんじ・じゅーす』をもって参れ……」
二階から、寝ぼけ眼のヒノカが階段をズリズリと這い下りてくる音が聞こえる。彼女は太陽の女神の末端を自称しているくせに、朝には絶望的に弱い。
「管理人殿! 報告する! 朝の四時より開始した八百万荘周辺の威力偵察、および三〇〇〇回の素振りを完了した! これより、損耗した筋繊維を修復すべく、高密度の栄養摂取を開始したい!」
庭からは、既にひと汗流したらしいシグルが、湯気を立てながら居間へと突入してくる。彼女の周囲には、戦乙女特有の研ぎ澄まされた闘気が渦巻いており、それが朝の冷たい空気とぶつかって小さな火花を散らしている。
「ふふ……皆様、朝から精が出ますわね。管理人さん、おはようございます。今朝の私は、少しだけ『霧』が多めですけれど、気にしないでくださいね?」
さらに一〇三号室からは、歩くたびに廊下に小さな水たまりを作るミナトが、眠たげに目をこすりながら現れた。彼女が通った後の壁紙がじわりと湿っていくのを見て、俺は早くもカビ取りスプレーの残量を計算し、目眩を覚える。
一〇一号室の管理人室は、いつの間にか住人たちの「共有リビング」兼「作戦本部」兼「食堂」と化していた。俺はあくびを噛み殺し、タオルを首に巻いて、戦場にも似た台所へと向かった。
まずは、四人分の白米を炊く。
洗米の音、そして炊飯器から噴き出す甘い蒸気の匂いが、殺風景な部屋を「家」の温度に変えていく。
続いて、味噌汁の準備だ。今日は少し奮発して、サキさんの店で安くしてもらった立派な豆腐と、ミナトが「懐かしい味がします」と喜ぶ鳴門のわかめを使う。出汁の香りが立ち上ると、ヒノカの鼻がピクピクと動き、彼女の神気が少しずつ安定していくのがわかった。
メインは、昨夜のバイト帰りにスーパーの閉店間際で勝ち取った、脂の乗った銀鮭。グリルの中でパチパチと皮が焼ける音が響き、香ばしい煙が食欲を容赦なく刺激する。さらに、シグルのリクエストである納豆(「この糸の粘り、まるで拘束魔法のようだ」と彼女は言う)と、ヒノカが愛してやまない、端がカリカリに焼けた目玉焼き、そしてミナトのためにたっぷりの出汁を閉じ込めた、ふるふると震える出汁巻き卵を焼き上げる。
「はいはい、並べるのを手伝ってください。ヒノカ様、出しっぱなしのスマホの充電器を片付けて。シグルさんは、その物騒な模造刀を居間に持ち込まない。ミナトさんは、ええと……とりあえず、その湿った着物をなんとかしましょうか」
俺が指示を出すと、彼女たちは「わらわは客じゃぞ」「武人の魂を遠ざけるとは……」「あら、これがおしゃれなんですのよ?」と軽口を叩き合いながらも、不思議と甲斐甲斐しくテーブルを整え始めた。
かつては信仰を失い、消えかけていた彼女たちが、今ではこうして俺の部屋で「朝飯」という、たった一つの目的のために命を輝かせている。その光景を眺めていると、俺の胸の中にあった「社会への疎外感」という名の深い澱が、温かな潮水に洗われるように消えていくのを感じた。
テーブルに並んだ、四人分の朝食。
窓から差し込む光が、味噌汁の湯気を白く照らし出し、銀鮭の脂をキラキラと反射させている。
四人は一斉に、居住まいを正して手を合わせた。
「「「「いただきます!」」」」
ヒノカが真っ先に目玉焼きの黄身を箸で突き崩し、濃厚なオレンジ色の液体を白米に絡めて口に運ぶ。
「……むう。やはり巡の作る飯は、下界の無機質な弁当とは格が違うわい。魂の芯まで火が灯り、妾の『内なる太陽』が再点火されるようじゃ。巡、お主、やはり妾の専属の神主になるべきではないか?」
「同感だ。この『なっとう』という兵糧……最初は敵軍の化学兵器かと思ったが、今では私の細胞一つ一つに軍規を叩き込み、不屈の闘志を奮い立たせてくれる。主殿、三杯目のおかわりを、あらかじめ予約しておく!」
「出汁巻き卵……。じゅわっと溢れるこの慈悲深い出汁。ダムの下で渇いていた私の心に、これほど優しく、深く染みる水はありませんわ。管理人さん、あなたの手は、本当に魔法のようですわね」
ミナトが小首を傾げて、湿った長い睫毛を揺らしながら俺に微笑む。その瞳には、一週間前のような、暗い泥に沈んだ絶望の影は微塵もない。
彼女たちが食べ、笑い、満足するたびに、俺という「器」を通じて、俺自身の生命力が底上げされていく感覚がある。
俺は鮭の身を丁寧にほぐしながら、三人の騒がしい顔を順番に見渡した。
特殊体質のせいで、どこにも居場所がないと思っていた。
霊に怯え、人間に疎まれ、誰からも必要とされないまま枯れていくのだと諦めていた。
それが今、俺の目の前には、俺の作った飯を「美味い」と言い、俺の存在を全力で肯定し、時にはワガママで振り回してくれる、最強で最弱な三人の「神様」がいる。
「……どうかしたのか、巡。そんなに妾たちを凝視して。もしや、あまりの美しさと神々しさに、言葉を失ったか? 苦しゅうない、好きなだけ崇めるがよい」
「管理人殿の視線に、熱を感知する。……もしや、私の箸の使い方が、古の武士の作法に反していたか? 正直に申せ、即座に修正し、己を律してみせる」
「ふふ、きっと私たちが、この八百万荘という『家』に馴染んでいくのが、たまらなく愛おしいのでしょう? ねえ、管理人さん。隠さなくても、その耳の赤さが全てを物語っていますわ」
俺は、あまりの気恥ずかしさに耐えきれず、熱い味噌汁を慌てて一口啜った。
「……いや。ただ、賑やかすぎて、家計簿のことを考えると頭が痛いなって思っただけですよ。でも、まあ……明日も、その次の日も、なんとかなるかなって。……そう思えるようになったのは、皆さんのおかげです」
外では、近所の子供たちの元気な登校の声や、商店街の開店を告げるシャッターの音が響き始めている。
地図に載らない、結界に守られたボロアパート『八百万荘』。
ここは、世間に忘れ去られた神々と、社会に行き場を失った青年が、不器用に、けれどもしっかりと手を繋ぎ合う、世界で一番温かな聖域。
「巡! 明日の朝は『ぱんけーき』を山盛りに焼くのじゃ! 蜂蜜という名の蜜をたっぷりかけてな!」
「私は、より高負荷な夜戦……すなわちオンラインゲームの徹夜に耐えうる、赤身肉のステーキを所望する!」
「私は……そうですね、管理人さんと一緒に選んだ、瑞々しい季節の果物がいいですわ。あ、剥くのは管理人さんがやってくださいね?」
尽きることのないワガママと、リクエストが飛び交う食卓。
俺は静かに、けれど揺るぎない決意を込めて、最後の一口を飲み込んだ。
どんなに家計が苦しくても、どんなに九十九所長が厄介事を持ち込んでも、俺はこの場所を、彼女たちの笑顔を守り抜こう。
ここが、俺たちの、本当の居場所なのだから。
管理人の一日は、まだ始まったばかりだ。
俺は空になった四人分の茶碗をまとめ、賑やかな朝の喧騒の中へと、一歩を踏み出した。




