第8話:水底より来たる少女と、湿り気だらけの初対面
九十九所長が両腕で抱えていた「黒い布に包まれた大きな荷物」が、不気味な脈動を伴って蠢いた。
八百万荘の錆びついた門前。詰め放題で袋の限界まで詰め込まれたジャガイモと、おまけのニンジンを抱えた俺は、その異様な光景に足を止めた。背後では、ヒノカとシグルが獲物を狙う獣のような鋭い視線で、その荷物を凝視している。
「いやあ、今回の入居者はちょっと、というか、かなり特殊でね。移動させるのにも霊的な保冷剤が必要だったんだよ。巡くん、ちょっとそこ、どいててね」
九十九所長が、いつものようにアロハシャツの襟を正しながら、胡散臭い笑みを深めた。彼が黒い布の結び目を解いた、その瞬間だった。
――バシャッ、と。
まるで古びた水槽が粉々に砕け散ったかのような勢いで、布の隙間から大量の水が溢れ出した。
「うわっ!? なんだ、これ! 所長、危ないですよ!」
俺は咄嗟にジャガイモの袋を庇いながら飛び退いたが、間に合わなかった。使い古したスニーカーは一瞬で足首まで水に浸かり、初夏の乾いたアスファルトが、黒々と濡れた色に変色していく。
溢れ出した水は、ただの水道水ではなかった。そこには、深い川の底に溜まった、ひんやりとした泥と苔、そしてどこか懐かしくも寂しい、雨上がりの土の匂いが混じっていた。
やがて水が引き、湿ったコンクリートの上に残されたのは、ボロボロの藍色の着物を纏った、一人の少女だった。
長い黒髪は水に濡れて顔に張り付き、肌は死人のように病的なまでに白い。
彼女は力なく膝をつき、肩を激しく震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……あ、ああ……ここは、どこ……? 水が……水が、足りない……身体が、焼ける……」
その声は、水面を渡る風のように儚く、今にも大気の中に霧散してしまいそうだった。
彼女の細い指先が、必死にアスファルトをなぞる。しかし、都会の硬い地面は、彼女が求める潤いを一滴も与えてはくれない。
「巡くん、紹介するよ。彼女はミナト。かつてはある広大な一級河川の主だったんだけど、近年の大規模な護岸工事と、巨大なダム建設で、文字通り心臓部をコンクリートで固められちゃってね。信仰も河川敷の不法投棄と一緒に捨てられちゃった、悲しき『水の女神』さ」
九十九所長の説明を聞いている間にも、少女――ミナトの体は、夕闇の迫る熱気に焼かれるように、陽炎となって揺らめき始めていた。存在が希薄になり、向こう側の景色が透けて見える。
「おい、巡! 何を突っ立っておる! この娘、このままでは本当に蒸発して消えてしまうぞ! 太陽を司る妾にはわかる。彼女の『核』が、もう熱に耐えきれなくなっておる!」
ヒノカが叫んだ。属性的に見ればミナトの天敵とも言える彼女だが、その瞳には同族の消滅を目の当たりにすることへの、隠しきれない動揺と危惧が宿っている。
シグルもまた、買い物袋を放り出し、シーツを広げるようにミナトの背後を支えようとした。
「主殿、彼女の魂の灯火が、今にも尽きようとしている! 私が冷気を放って温度を下げたいが、私の神気は戦の熱を帯びてしまう! 水を! 大至急、清らかな水を補給しなければ、彼女の霊基が崩壊するぞ!」
「わかってます! 一〇三号室……いや、そこまで運ぶ時間はなさそうだ! 風呂場だ! 所長、足元を支えてください!」
俺は買い物カゴを門の脇に投げ捨て、ミナトの冷たく湿った体を抱き上げた。
抱き上げた瞬間、その軽さに愕然とした。まるで重力を持たない、ただの水滴の塊を抱えているような、あまりにも頼りない重さ。
だが、俺の肌が彼女の濡れた着物に触れたその瞬間、彼女の内側から溢れ出していた「乾き」と「絶望」が、俺の「器」へと猛烈な勢いで流れ込んできた。
――重厚なコンクリートに喉を塞がれ、呼吸ができなくなる閉塞感。
――川底の砂利を一掃され、産卵の場所さえ失った魚たちの嘆き。
――かつて自分を豊穣の母として敬った人々が、今はただの『効率的な排水路』として自分を見る、その氷のような視線。
「っ……大丈夫だ、ミナトさん。ここは八百万荘だ。あんたをコンクリートで閉じ込める奴はいないし、あんたの名前を忘れる奴もいない!」
俺は自分の「器」を最大限に開き、彼女が抱えきれなくなった「現代への憎しみ」を、自分の中に吸い込んだ。
胸の奥が、冷たい泥を流し込まれたように激しく痛み、呼吸が肺の奥で凍りつくような感覚に襲われる。だが、俺がその痛みを肩代わりすることで、ミナトの絶望的な荒い呼吸が、少しずつ、穏やかな波紋へと変わっていくのがわかった。
一階の廊下を全力で走り、風呂場に駆け込む。
幸い、浴槽には昨夜の残り湯が張ってあった。俺はミナトを抱えたまま、膝まで水に浸かり、彼女を静かに沈めるように横たえた。
水に触れた瞬間、彼女の体が青白く、神秘的な発光を開始した。
「……ぷはっ……! あ、あ、ああ……助かった……。息が……息が、できます……」
ミナトは水面に顔を出し、深い深海から生還したばかりの潜水夫のように、何度も大きく肩を上下させて息を吐いた。
濡れた黒髪が水面にゆったりと広がり、彼女の瞳に少しずつ、清流のような静かな灯火が戻っていく。
しばらくして、彼女はじっと俺を見つめた。その眼差しは、先ほどまでの絶望の色を消し、深い湖の底を覗き込むような神秘さを湛えていた。
「……あなた、ですか? 泥だらけの私を、あんなに温かく、折れそうなほど強く抱きしめてくれたのは……」
「管理人、ですから。……これくらい、当然です。気分はどうですか? どっか、まだ熱いところはありませんか?」
「……はい。とても、清らかで……。八百万荘の空気には、あなたの『縁』が、まるで降り注ぐ雨のように満ちているんですね。こんなに心地よい場所は、川を堰き止められてから、初めてです」
ミナトはほんのりと頬を桜色に染め、水の中から俺の頬にそっと手を伸ばした。
その指先が触れた瞬間、ひんやりとした心地よい感触とともに、俺の頭の中に、誰もいない森の奥で流れる小川の音が響いた。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
脱衣所のドアが、まるで暴動でも起きたかのような勢いで蹴破られ、ヒノカとシグルが乱入してきた。
「巡! 妾の許可なく、新しい女を風呂場に連れ込むとは、どのような不敬か! 救命措置と言えば何でも許されると思うなよ!」
「管理人殿! 救助活動は終了し、対象のバイタルは安定したはずだ! 必要以上の接触、および見つめ合いは、風紀を乱し、私の騎士道精神を激しく逆撫でするぞ!」
ヒノカの背後からは陽炎のような熱気が、シグルの足元からは凍てつくような闘気が立ち上っている。
そして、水の中で「ふふっ」と、どこか妖艶に、それでいて庇護欲をそそるような笑みを浮かべるミナト。
「あら……。太陽の女神様と、北の戦乙女様。……お騒がせしました。でも、私の居場所は、冷たい水の底よりも、この方の腕の中の方が、ずっとずっと心地よかったですわ」
「なんじゃとーっ!? お主、この恩知らずな水の精め! その湿った髪で巡に触れるな!」
一〇三号室の新しい住人は、どうやらヒノカやシグルとはまた違った、しっとりとした執着心で俺を翻弄することになりそうだった。
浴室に立ち込める湿った熱気と、女神たちの怒鳴り声。
俺はびしょ濡れになった自分の制服を見つめながら、これからの光熱費――特に水道代の爆発的な跳ね上がりを想像して、そっと遠い目をした。
八百万荘の夏は、どうやらとてつもなく湿度の高い、長い季節になりそうだった。




