第6話:女神の入浴、管理人の受難
八百万荘の平和な夕暮れを切り裂いたのは、脱衣所から響いたヒノカの、この世の終わりかのような悲鳴だった。
「巡! 巡よ、一大事じゃ! あの四角い箱から、氷の吐息のごとき試練が降り注いできたのじゃ! 妾の体が、妾の尊き体が凍えてしまう!」
一階の自室で、明日の深夜バイトのシフト表と睨めっこしていた俺、神代巡は、手に持っていたペンを放り出して廊下に飛び出した。
脱衣所の扉が半開きになっており、そこから湯気……ではなく、五月とは思えないほど冷え冷えとした冷気が漏れ出している。
「どうしたんですか、ヒノカ様! ……うわ、冷たっ!」
浴室を覗き込むと、壁に固定されたシャワーヘッドから、勢いよく水が噴き出していた。
バスタオル一枚を必死に体に巻き付けたヒノカが、真っ青な顔で洗い場の隅にうずくまっている。
どうやら、至福の入浴タイムを楽しんでいた最中に、突如としてお湯が、冷徹な水へと豹変したらしい。
「給湯器が止まったのか……。すみません、すぐ見てきますから、そのまま動かないで!」
俺は裏手に設置された古い給湯器へと走った。
案の定、種火が消えている。このアパートの給湯器は、いつ製造されたのかさえ定かではない骨董品だ。
特に、二階の住人が電気を使いすぎたり、誰かが強い神気を出したりすると、霊的な干渉を受けるのか、たびたび機嫌を損ねる。
「……あー、やっぱり。シグルさんが二階でパソコンをフル稼働させながら、ヒノカ様が浴室で鼻歌まじりに神気を出したから、このアパートの霊的な容量を超えたんだな」
俺は慣れた手つきで給湯器のカバーを開け、煤けたレバーを何度も操作した。
カチカチ、という乾いた音が空しく響く。
かつての俺なら、こんなトラブルが起きるたびに「なんで自分だけこんな目に」と腐っていただろう。だが今は、この古い機械を宥めることも、管理人としての重要な儀式のように思えていた。
三度目、ようやくボッと小さな音がして、種火が灯った。
浴室へ戻ると、ヒノカはタオルにくるまったまま、小刻みに震えていた。
普段の傲慢な態度はどこへやら、濡れた赤髪を肩に垂らして震える姿は、雨に濡れた子犬のようで、放っておけない。
「ヒノカ様、もう大丈夫ですよ。種火はつけ直しました。あと一分もすれば、またお湯に戻ります」
「……巡、妾はもう駄目じゃ。太陽の化身たるこの妾が、水ごときに屈して震えるなど、神の末代までの恥……。あな恐ろしや、現代の文明はこれほどまでに残酷な牙を剥くのか……」
彼女は俺のパーカーの裾を、縋るように掴んできた。
その指先は驚くほど冷たく、彼女の存在自体が、また少しだけ透け始めているように見えた。
神様は、信仰だけでなく、肉体的な快適さや安心感もまた、現世に留まるための糧にしている。俺は確信を持って、彼女の肩に新しい乾いたタオルを掛けた。
「風邪引きますよ。神様が風邪を引くのかは知りませんけど、少なくとも俺の胸がザワザワして落ち着かない。……ほら、俺がこのドアの前で見張っててあげますから、さっさと入り直してください」
「……巡が、見守ってくれるのか? 妾を、独りにせぬか?」
「背を向けて、ドアの外に直立不動でいますよ。さあ、早く!」
俺が脱衣所のドアを閉め、その木の感触を背中で感じながら立つと、中から再び「ちょろちょろ」と温かいお湯の音が聞こえ始めた。
それと同時に、ヒノカの安堵したような、深い吐息が漏れてくる。
「……巡よ。お主の手は、不思議じゃな」
「何がですか?」
「お主が給湯器とやらに触れると、あんなに冷たかった水が、途端に慈悲深い温かさに変わる。お主の『器』は、神々の汚れを落とすだけでなく、世界そのものの冷たさを温め直しているようじゃ」
そんな大層なものじゃない。ただ、古い機械の癖を理解し、お人好しにも手を貸しただけだ。
だが、彼女の言葉は、不思議とすとんと俺の胸に落ちた。
誰からも必要とされなかった俺の「余計な気遣い」が、ここでは神様の命を守る術になる。
やがて、満足げな顔をしたヒノカが、湯気を纏って風呂から上がってきた。
湯上がりで上気した頬、いつもより艶やかさを増した赤髪。
彼女は俺の顔を見るなり、いたずらっぽく、それでいてどこか熱を帯びた瞳で微笑んだ。
「待たせたな、巡。……次はシグルの番じゃが、あの武人気取りの女、先ほどから廊下を軍靴の音も立てずにうろついておるぞ」
見れば、廊下の薄暗い奥で、シグルが着替えの入った竹カゴを抱え、まるで戦場の最前線で待機する兵士のような姿勢で立っていた。
「管理人殿! 報告する! 浴室内の安全、および水温の安定を確認した。これより、私も戦塵を洗い流し、身を清めるべく入浴任務を遂行したい!」
「任務って……。シグルさん、お湯はもう大丈夫です。でも、絶対にお風呂の中で剣の素振りのイメージトレーニングとかしないでくださいね。神気が昂ると、また給湯器がへそを曲げますから」
「承知した! 精神を統一し、無の状態、すなわち透明な水のごとき心境での入浴を試みる!」
しかし、そのわずか十分後。
再び脱衣所から「ヌォォォーッ! 冷気による奇襲か! 背後を取られるとは!」というシグルの絶叫が響き渡った。
結局、その夜は三人が交互に、いつ止まるか分からない給湯器のご機嫌を伺いながら、騒がしい時間を過ごすことになった。
俺が最後にようやく風呂場に入れたのは、日付が変わる頃だった。
ぬるめのお湯に浸かりながら、俺は天井の小さな染みを眺めていた。
一人で住んでいた頃は、お湯が出ないなんてただの不幸で、誰にも言えない惨めな出来事だった。
けれど今は、そんな些細なトラブルでさえ、誰かと騒ぎ、解決し、笑い合うための「日常」の大切なスパイスになっている。
曇った鏡を指でなぞると、そこには自分の少しだけ晴れやかな顔があった。
二階からは、まだ寝付けないのか、ヒノカとシグルが明日の朝食のメニューについて言い争う声が聞こえてくる。
「……さて、明日は商店街の特売日か。サキさんのところへ行って、ジャガイモを安く分けてもらおう」
管理人の夜は、穏やかに、そして賑やかに更けていく。
明日には、また新しい、どうしようもなく愛おしい騒動が待っているとしても。




