第5話:戦乙女、新たな戦場(ネット)に立つ
深夜二時。静まり返った八百万荘の二階から、突如として地響きのような怒号が響き渡った。
「――左翼より敵軍の強襲を確認! 全員、私に続け! 臆病者は置いていく、一気呵成に制圧せよ! ヴァルハラの門は、勇気ある者のために開かれているのだ!」
一〇一号室で家計簿と格闘し、一円単位の赤字に頭を抱えていた俺、神代巡は、手に持っていたペンを放り出して天を仰いだ。
声の主は、二〇二号室のシグルだ。
直後、隣の二〇一号室から「うるさいのじゃ! 妾の安眠を妨げるな! 太陽が昇らなくなっても良いのか!」というヒノカの壁ドン――正確には壁を媒介にした熱波の放出――が聞こえてくるが、シグルの咆哮は一向に止まる気配がない。
「はあ……。やっぱり、ネットを繋いだのは失敗だったか」
数日前、シグルが「現代の戦を学び、主殿の守護に活かしたい。武人の嗜みとして、下界の兵法を知る必要がある」と、これ以上なく殊勝な顔で願い出てきた。
俺は「まあ、調べ物くらいなら」と、余っていた古いノートパソコンを彼女の部屋に設置してやったのだ。
それがまさか、高潔な戦乙女を『重度の廃人ゲーマー』へと変貌させてしまう引き金になるとは、夢にも思わなかった。
俺は階段を上がり、二〇二号室のドアをノックもせずに開けた。
暗い部屋の中で、液晶画面の青白い光を浴びたシグルが、不釣り合いなゲーミングヘッドセットを装着し、マウスを猛烈な勢いでクリックしている。
「シグルさん、深夜ですよ。近所迷惑だし、ヒノカ様も本気で怒ってる……」
「主殿! 良いところに来た! 見てくれ、この絶望的な戦局を! 我が軍は現在、敵の包囲網によって三方を塞がれている。だが、私はここから聖域(拠点)の奪還を完遂してみせる!」
「……それ、ただの五対五のチーム対戦ゲームですよね? しかも無料の」
画面の中では、重武装の兵士たちが火器を乱射し、戦場を駆け巡っている。
シグルの操作するキャラクターは、明らかに他のプレイヤーとは一線を画す、人間離れした超反応で次々と敵をなぎ倒していた。
「ただの遊びではない! 私はこの『えふぴーえす』という儀式を通じて、現代人の闘争本能と、勝利への渇望に共鳴しているのだ。見ろ、私の体がこれほどまでに輝いているのを!」
指摘されて気づいたが、シグルの体はかつてないほど濃密な神気を放っていた。
驚くべきことに、ゲームの実況配信を通じて、リアルタイムで視聴者から送られる「この人、人間か?」「神エイムすぎるだろ!」「救世主降臨!」といった称賛のコメントが、現代における新たな『信仰』の形として、彼女に濁流のように流れ込んでいるのだ。
消えかけていた戦乙女が、ネットの世界で「伝説のプレイヤー」として再誕しようとしていた。
「存在が安定するのは良いことですけど……。でも、ボイスチャットで知らない相手に『死を恐れるな! 貴公の背後は私が守る!』とか叫ぶのはやめてください。相手の男子高校生が怯えて回線を切っちゃいましたよ」
「ふむ……。下界の戦士たちは、少々精神が軟弱なようだな。肉体が滅びぬ戦場ですら、これほどの怯えを見せるとは。私が先頭に立ち、勇気の意味を教え込まねばなるまい」
「だから、みんな気楽な遊びでやってるんですって」
俺は彼女の背後から画面を覗き込んだ。
シグルのプレイは、もはや技術を通り越して予知に近い。
神としての野生的な直感で壁の向こうに潜む敵の配置を察知し、迷いなく引き金を引く。その横顔は、初めて出会った時の、氷のような冷たさを湛えた軍人のものではなかった。
まるで、初めての玩具を買ってもらった子供のように、純粋な熱を帯びている。
「……楽しいですか、それ」
「たの……しい? ……そうだな。かつての戦場は、常に鉄の臭いと、絶望の声と、理不尽な死に満ちていた。私はただ、散りゆく魂を回収するだけの装置だった。だが、ここでは誰も死なぬ。敗北しても、キー一つでまた立ち上がることができる。……このような、慈悲深い戦場があったのだな」
シグルは一瞬、液晶画面から目を離し、遠くを見るような目で呟いた。
彼女は、人々が殺し合う血腥い時代にしか居場所がなかった神だ。
平和な現代で彼女が消えかけていたのは、彼女を必要とする「切実な願い」がどこにもなかったからだ。
それが今、画面越しの見ず知らずの誰かに「助かった」「すごい」と頼りにされることで、彼女の魂はこれまでにない充足感を得ている。
「……なら、いいんですけどね。でも、夜更かしは美容に悪いですよ。神様だって、不摂生すれば肌が荒れるんですから。ほら、明日は特売日ですよ」
「案ずるな、主殿。私は神だ、三日三晩の不眠不休など造作もない。戦場においては一瞬の油断が命取り……」
「ダメです。あと一試合終わったら、強制終了ですからね。電源、抜きますよ?」
「なっ……! 主殿、それはあまりにも非道な策! 兵糧攻め以上の卑劣な一手ではないか!」
俺がそう告げると、シグルは必死に抗議しながらも、最後には「御意」と殊勝に頷いた。
彼女にとって、俺の言葉はもはやゲームのルールや戦場の規律よりも優先すべき『絶対の命令』になりつつある。
ようやく試合が終わり、彼女がヘッドセットを外すと、部屋に心地よい静寂が戻った。
シグルは椅子の背もたれに深く体を預け、じっと俺を見つめた。
「主殿。貴殿が私をこの場所に招き、この『ぱそこん』という窓を与えてくれたことに、改めて感謝する。私は今、自分が戦乙女であるという誇りを、新たな形で取り戻しつつあるのだ」
「それは良かったです。でも、ゲームばっかりしてないで、たまには外の空気も吸ってください。日光を浴びないと、ヒノカ様に怒られますよ」
「ふむ……。では、明日の買い出しには私が同行しよう。この戦場で鍛えた索敵能力と動体視力をもってすれば、割引シールの貼られる瞬間を見逃すことはない。他者を圧倒する速度で、特売品を確保して見せよう」
「いや、それは効率的……じゃなくて、助かりますけど。でも、普通の格好で来てくださいね。そのトレンチコート、今の季節はちょっと怪しいですから」
翌朝。
スーパーの開店待ちの列に、眠そうに目をこするジャージ姿のヒノカと、気合の入りすぎたシグルを連れて並ぶ俺の姿があった。
「巡! あっちの卵が安いぞ、突撃じゃ! 妾の歩みに続け!」
「了解した、ヒノカ殿! 私が殿を務める、主殿は速やかにカゴを確保せよ! 敵の手に渡る前に制圧するのだ!」
「……恥ずかしいから、大きな声で叫ばないでください!」
神様たちの「戦場」は、ネットの中から俺の日常へと確実に侵食してきている。
家計簿の数字は相変わらず絶望的だが、彼女たちが楽しそうに笑っているのなら、それも悪くない――なんて、お人好しな管理人はまたしても思ってしまうのだった。




