第4話:管理人の財布は、常に氷河期
「……巡よ。妾の『すまーとふぉん』の通信制限という呪いを解け。これでは動画の読み込みが遅くて、下界の動向を探れぬではないか」
六月に入ったばかりの、少し蒸し暑い午後のことだ。
二〇一号室の主、ヒノカが俺の部屋に転がり込んできては、画面の止まったスマホを突きつけてきた。
「ヒノカ様、それは呪いじゃなくて単なる使いすぎです。今月、まだ一週間も経ってないんですよ? 一体どれだけ動画を見たんですか」
「む……。少しばかり、異世界の料理を作る動画や、猫が滑る動画を見ていただけじゃ。それよりも巡、お主こそ何をそんなに眉間に皺を寄せておる」
俺はちゃぶ台の上に広げた家計簿と、数枚の千円札を前に、深いため息をついた。
「お金がないんです。ヒノカ様とシグルさんが来てから、電気代は三倍、食費は……計算するのも恐ろしいことになってるんですよ。九十九所長からもらった管理手当は、もう底をつきました」
そう、これが現代の神様を養うという行為の、最も残酷な現実だった。
神様たちは食事を摂ることで存在を固定するが、その生命エネルギーは巡の作った料理だけでなく、現代的なインフラ――すなわち冷暖房やネット環境にも依存し始めている。
ヒノカが一日中エアコンをつけ、シグルが深夜までオンラインゲームで戦果を挙げれば挙げるほど、俺の財布からは「円」という名の信仰心が蒸発していくのだ。
「管理人殿、私の部屋の電球が切れた。暗闇での修練も悪くはないが、これでは装備の手入れに支障が出る」
そこへ、二〇二号室のシグルまでが申し訳なさそうに顔を出した。
彼女の手には、完全に寿命を迎えたLED電球が握られている。
「……わかりました、買ってきますよ。でも、その前に俺は稼いでこなきゃなりません。今日の夜はバイトに行ってくるので、夕飯は作り置きを温めて食べてくださいね。いいですか、喧嘩しちゃダメですよ」
俺は押し入れから、着古した警備員の制服を取り出した。
特殊な「見える」体質のせいでまともな会社には入れないが、夜勤の警備なら話は別だ。事故物件や怪異の噂がある建設現場など、普通の人が嫌がる現場ほど、俺のような体質は重宝される。
何より、実害のある霊を無意識に中和してしまう俺の傍は、雇用主にとっても「都合が良い」らしい。
「ばいと……? 巡、また夜戦に出向くというのか。ならば私も供をしよう。主殿を一人で死地に赴かせるのは、戦乙女の恥辱だ」
「シグルさん、これは死地じゃなくて仕事です。一般人にその格好を見られたら、俺が警察に連行されちゃうんで、お留守番しててください」
「妾も反対じゃ! 巡が不在の間、誰が妾に『あいすくりーむ』を供えるのじゃ。管理人の職務放棄ではないか!」
わがままを言う二人をなんとか宥めすかし、俺は夜の街へと踏み出した。
***
今夜の現場は、郊外にある取り壊し予定の廃病院だった。
周囲には高いフェンスが張り巡らされ、街灯の光も届かないその場所は、見るからに「出る」雰囲気を醸し出している。
「……うわあ、久しぶりにひどいな、ここ」
門をくぐった瞬間、肌を撫でる空気が明らかに数度下がった。
視界の端で、白衣を着た影が廊下を横切る。ナースステーションの跡地からは、赤ん坊の泣き声のようなノイズが聞こえてくる。
だが、俺がその場所を歩くと、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、それらの不浄な気配が俺の体へと吸い込まれていった。
胸のあたりが重苦しくなり、呼吸が少しだけ浅くなる。
これが俺の仕事だ。周囲の「淀み」を吸い込み、現場を清浄化すること。
「……っ。今日はちょっと量が多いか。ヒノカ様たちの神気を少し分けてもらってくればよかったな……」
崩れかけた壁に手をつき、荒い息を吐く。
吸い込みすぎた負の感情が、脳内で「苦しい」「恨めしい」という叫びとなって響く。
意識が遠のきそうになった、その時だった。
「――やはり、無理をしていたな。主殿」
凛とした、鈴を転がすような声が静寂を切り裂いた。
顔を上げると、そこにはいるはずのない人影があった。
銀髪を夜風になびかせ、軍服の裾を翻したシグル。そして、その隣で不機嫌そうに鼻を鳴らすヒノカ。
「え……お前ら、なんでここに……」
「お主がふらふらと頼りない足取りで出ていくからじゃ。心配で『おんらいん・げーむ』に集中できんかったわい」
「主殿の魂が濁り始めていた。主君の危機を察知できぬほど、私の感覚は鈍っていない」
シグルが俺の肩を支え、ヒノカが俺の額に手を当てた。
彼女の手から、夕日のような温かな神気が流れ込んでくる。
俺が吸い込んでしまった廃病院の淀みが、太陽の光に焼かれる雪のように、一瞬で溶けて消えていった。
「……悪い。助かったよ」
「礼などよい。それよりも巡、お主がこのような掃き溜めで身を削ってまで稼ごうとしているのは、すべて妾たちのせいなのじゃな?」
ヒノカが、珍しく神妙な顔で周囲を見渡した。
怨霊たちの影が、彼女の後光に怯えて霧散していく。
「……まあ、そうですね。でも、俺の仕事ですから」
「……不甲斐ない。主殿を守るべき私が、主殿を苦しめる要因になっていたとは。管理人殿、約束しよう。これからは私も『ばいと』とやらに尽力し、このアパートの家計に武勲を立てる!」
「いや、シグルさんにバイトは無理だって……」
「妾もじゃ! 妾の力をもってすれば、宝くじの一等など造作もない……と言いたいところじゃが、運命の改竄は禁忌じゃからのう。代わりに、この場所を浄化してやるわい。これでお主の仕事も早く終わるじゃろう?」
ヒノカが指をパチンと鳴らすと、廃病院を覆っていた不気味な気配が、一瞬で爽やかな夏の夜風へと変わった。
霊たちが消えたわけではない。彼女の圧倒的な存在感に当てられて、みんな「成仏」してしまったのだ。
「あ……おい、それやりすぎると、俺の仕事がなくなっちゃうんだけど……」
呆然とする俺を余所に、二人の神様は「さあ、帰るぞ」「腹が減ったな」と勝手に歩き出す。
家計は相変わらず火の車。
神様たちは相変わらず手がかかる。
けれど、一人で淀みを吸い込んでいた頃に比べれば、夜の冷たさはそれほど気にならなかった。
「……待ってくださいよ、二人とも! 帰りにコンビニで、アイスくらいなら買ってあげますから!」
俺の声に、二人の女神が同時に振り返って、満面の笑みを浮かべた。
その光景だけで、明日もまた頑張って稼ごうと、お人好しな管理人は心に決めてしまうのだった。




