第3話:戦乙女、隣の部屋に強襲す
「助けてって、一体何が起きてるんですか!」
俺は二〇一号室を飛び出し、軋む階段を駆け下りた。
一階の廊下は、異様な空気に包まれていた。五月の夜だというのに、肌を刺すような冷たい風が吹き抜け、どこからか鋼鉄と鋼鉄が激しくぶつかり合うような不快な音が響いている。
音の主は、一〇二号室――空室だったはずの部屋の前にいた。
そこには、呆然と立ち尽くすアロハシャツ姿の九十九所長と、その前に膝をつき、今にも抜刀せんばかりの鋭い眼光を放つ少女の姿があった。
「不審者め……我が主君の聖域に足を踏み入れるとは。その不敬、万死に値する!」
「待って待って! 僕はこのアパートの所有者だってば! 巡くん、早く、早く彼女を止めて!」
九十九所長が俺を見て情けない声を上げる。
少女は、俺の気配を感じ取った瞬間、弾かれたように振り返った。
透き通るような銀髪のショートカット。瞳は凍てつく冬の湖のように青く、その背筋は一本の槍のように真っ直ぐに伸びている。
彼女は俺を一瞥すると、その瞳に驚愕の色を浮かべた。
「……この清冽な魂の響き。貴殿か? 貴殿が、この地の安寧を統べる新たな主君か?」
「主君……? いや、俺はただの管理人で……」
「管理……なるほど、この迷える魂の吹き溜まりを支配する『王』ということか。失礼した。私はシグル。北の戦場より、戦果を失い流れ着いた者なり」
彼女はスッと立ち上がると、軍人のような完璧な敬礼を俺に捧げた。
だが、その凛とした姿とは裏腹に、彼女の着ている軍服風のコートはあちこちが擦り切れ、その体も二階のヒノカと同じように、どこか頼りなく揺れている。
「巡くん、彼女はシグル。あっちの方では結構な戦乙女だったんだけど、最近は戦争が減ったのと、平和なゲームの普及で信仰が激減しちゃってね。行き倒れてたところを僕がスカウトしたんだ」
「スカウトって……所長、この人、明らかに武器持ってますよね?」
シグルの腰には、古びた、しかし凶悪な殺気を放つ剣が佩かれている。
彼女は俺の視線に気づくと、誇らしげに胸を張った。
「案ずるな、主殿。この剣は我が魂そのもの。貴殿の命を狙う不届き者は、このシグルが一人残らず灰にしてくれよう。……くっ、腹が」
威勢の良い言葉の直後、彼女の腹の虫が「グーッ」と盛大に鳴り響いた。
シグルは一瞬で顔を真っ赤に染め、俯いて唇を噛む。
「……すまぬ。三日、いや、五日は何も口にしておらず……戦乙女としての誇りで耐えていたのだが……」
「……ヒノカ様と同じか。分かりました、とりあえず部屋に入ってください。何か食べられるものを作りますから」
俺はため息をつきながら、彼女を二〇二号室へと促した。
ヒノカの部屋とは対照的に、シグルの部屋は驚くほど殺風景だった。家具一つなく、あるのは壁に立てかけられた模造刀らしきものと、使い古された毛布が一枚だけ。
「……本当に、何も無いんですね」
「戦士に贅沢は不要だ。……ただ、先ほど一階で感じた、あの鼻をくすぐる芳醇な香りの正体だけは、気になって夜も眠れそうにない」
「さっきの夕飯の匂いですね。すぐ持ってくるので、そこで大人しくしててください」
俺は急いで一階のキッチンに戻り、残っていた米をすべて使い、即席のチャーハンと、これまた半額で買っておいたインスタントの味噌汁を用意した。
二〇二号室に戻ると、シグルは正座して俺を待っていた。
「お待たせしました。大したものは作れませんでしたが」
「感謝する、主殿。……いただきます」
彼女は丁寧に一礼し、チャーハンを口に運んだ。
一口食べた瞬間、彼女の体がビクンと震える。
「……っ!? これは……なんという熱量だ。口の中で米の一粒一粒が、勇猛な兵士のように踊っている……! この黄金色のコーティング、そして複雑に絡み合う塩気の暴力……! これが、現代の糧食か!」
「いや、ただのチャーハンですって。……そんなに泣きながら食べないでください」
シグルは溢れる涙を拭おうともせず、一心不乱にスプーンを動かした。
彼女が食べるたびに、部屋の中に漂っていた冬のような寒気が和らぎ、代わりに春の陽だまりのような柔らかな空気が満ちていく。
俺の体にも、先ほどヒノカに食事を出したときと同じ、心地よい充足感が流れ込んできた。
ふと視線を感じて入り口を見ると、二〇一号室からヒノカが顔を出していた。
「おい、巡! 妾を差し置いて、新しい女にそんな美味そうなものを与えるとは何事じゃ! 妾にも、その『きんぴら』というやつを寄越せ!」
「これはチャーハンです。ヒノカ様、さっき食べたばっかりでしょ。……それからシグルさん、彼女は隣の部屋のヒノカさん。一応、神様仲間です」
シグルは食事を中断し、ヒノカを鋭く見据えた。
「……ふん、太陽の女神か。光り輝いているわりには、随分と堕落しているようだな。主殿を困らせる不届き者ならば、今のうちに私が排除しておこうか?」
「なんじゃと! この成り上がり者の戦乙女め! お主こそ、その物騒な鉄屑を片付けたらどうじゃ!」
一触即発の空気に、俺は二人の間に割って入った。
「こら! アパート内での喧嘩は禁止です! 仲良くできないなら、明日の朝飯は両方抜きにしますよ!」
その言葉に、二人の女神は同時に「うっ」と言葉を詰まらせ、しぶしぶと視線を逸らした。
どうやら、このアパートにおいては「食事」こそが唯一絶対の法となるらしい。
「……はあ。所長、本当にこの二人をここで預かるんですか?」
「もちろん! 巡くんなら、きっと彼女たちを立派な『現代の神様』に育ててくれるって信じてるよ。あ、あと、家賃の足しにこれ、使ってね」
九十九所長が手渡してきたのは、なぜか古い銀貨が数枚。
こんなのどこで換金すればいいんだよ……というツッコミを飲み込みながら、俺は騒がしくなった廊下を見渡した。
特殊体質のせいで社会から拒絶された俺。
信仰を失い、消えかけていた彼女たち。
ここは、居場所のない者たちが寄り添い合う、世界で一番不器用な聖域。
俺の管理人としての、本当の生活は、今この瞬間から始まったのだ。




