第2話:腹が減っては「神」はできぬ
「……はあ、ひどいな、これ。神聖な場所だと思ってたんだけど」
俺、神代巡は、二〇一号室――自称・太陽の女神ことヒノカの部屋の惨状を前に、思わず天を仰いだ。
六畳一間の空間は、文字通り足の踏み場もない。
食べ散らかした菓子の袋、いつのものか分からない飲みかけの炭酸飲料のペットボトル。そして、彼女が『下界を観測し、信仰を収集するため』と称して一日中眺めているスマートフォンの充電ケーブルが、のたうつ蛇のように床を這っている。
これが日本の最高神の末端を自称する存在の居室だというのだから、世も末だ。
当のヒノカはといえば、先ほどのポテトチップスで少しだけ人心地ついたのか、ベッド代わりにしている万年床の上で、猫のように丸まっていた。
しかし、その体は依然として薄い霧のように頼りなく、時折ノイズが走るように向こう側の壁が透けて見える。
「何をぼーっとしておる。妾は、温かい食事が食べたいと言ったのじゃ。この『ぽてとちっぷす』という供物も悪くはないが、いかんせん軽すぎる。油と塩だけでは、妾を焼き続ける燃料にはならぬのじゃ」
「わかってますよ。でも、この部屋で火を使うのは危なすぎる。ガスが通ってるかも怪しいし……。ちょっと待っててください、一階の俺の部屋で作ってきますから」
俺はため息をつきながら、とりあえず彼女の部屋の窓を全開にした。
どよんと淀んでいた空気の中に、夕暮れ時の街の匂いが流れ込む。
一階に降り、管理人の居室である一〇一号室に戻る。
九十九所長からは「自由に使っていい」と言われているキッチンは、意外にも清潔だった。だが、冷蔵庫の中身は絶望的に心もとない。
自分の引越し荷物を整理する間もなく始まった管理人生活。中にあるのは、昨日スーパーの半額セールで必死に確保した卵一パックと、しなびかけの小松菜、それに僅かな豚肉の切れ端だけだ。
「……これで何とかするしかないか。初仕事が女神様の給仕だなんて、履歴書には書けないな」
俺は手際よくコンロに火をつけた。
昔から「変なもの」が見えるせいで、友人付き合いもままならなかった俺にとって、料理は数少ない没頭できる趣味だった。
包丁で野菜を刻む小気味よい音を聞いている間だけは、背後に立つ霊の不気味な囁きを忘れられたからだ。
フライパンに油を引き、豚肉を投入する。じわじわと肉の焼ける香ばしい香りが立ち上る。そこに小松菜を加え、強火で一気に炒め合わせる。味付けはシンプルに醤油とみりんと、隠し味に少しの粉末出汁。
それから、空いたスペースで出汁巻き卵を一つ。黄金色の卵焼きが綺麗に巻けていく。
炊飯器の中で温まっていた、炊きたての米の香りが、狭いキッチンに満ちていく。
盆にそれらを並べ、二階へと戻る。
二〇一号室のドアの前まで来ると、中から「はふはふ」という妙な期待に満ちた吐息が漏れ聞こえてきた。
「お待たせしました。ヒノカ様」
ドアを開けると、ヒノカは鼻をヒクヒクさせながら、這いずるようにして入り口まで迎えに来ていた。その瞳は、スマートフォンの画面よりも明るく輝いている。
「おお……これは、良い香りじゃ。神気が混じっておるわけではないのに、なぜか魂の奥底が震えるような……。巡よ、これは一体何の奇跡じゃ?」
「大げさですよ。ただの豚肉と小松菜の炒め物です。あとは、ちょっとした卵焼き。はい、食べてください。行儀悪いですけど、床に置きますよ」
床のゴミを少しだけ足で寄せてスペースを作り、盆を置く。
ヒノカは箸を手に取ると、もはや作法も何もあったものではない。震える手で、まずは肉を一口頬張った。
「…………っ!」
その瞬間、彼女の体がカッと熱を帯びたように輝いた。
物理的な発光ではない。彼女の存在そのものの『濃度』が、一気に上がったような感覚だ。
透けていた指先が実体を取り戻し、真っ白だった肌にほんのりと朱が差していく。
「美味い……! なんじゃこれは、噛むたびに命が、温かさが染み渡るようじゃ……! 濃い味付けが、妾の干からびた魂を直接潤していくようじゃ……!」
「ゆっくり食べてください。逃げやしませんから。……喉、詰めないでくださいよ?」
「黙れ! 妾はもう三日も絶食しておったのじゃぞ! 街の奴らが妾を忘れ、電灯などという無機質な光で夜を照らすようになってからというもの、妾への祈りも、季節の捧げ物も一つも届かぬ……。空腹は、妾の心を氷のように冷たくしておったのじゃ……」
彼女は涙目になりながら、夢中で米をかき込んでいく。
茶碗一杯の米が、見る間に消えていく。その食べっぷりは、神というよりは、保護されたばかりの野良猫のようだった。
その姿を見ていると、俺の胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
そうだ。この感覚だ。
俺が霊を見て「寒い」と言ったり、彼らの救われない未練を勝手に受け止めてしまったりする時の、あの共鳴感。
だが、今は決定的に違う。
ヒノカが食事を摂り、生命力を回復させるたびに、彼女の中から溢れ出す純粋な『喜び』が、俺という器の中に清流のように流れ込んでくるのだ。
「……あ、体が軽い」
さっきまでの就活失敗の重苦しい疲れや、霊を視すぎたことによる持病のような頭痛が、霧散していく。
俺が彼女に食事を与え、彼女がそれを喜ぶことで、俺自身の不安定な体質もまた、彼女の神聖なエネルギーによって安定していくのか。
「ふぅ……満足じゃ。巡よ、苦しゅうない。近う寄れ」
完食したヒノカが、満足げに寝転びながら俺を手招きした。
促されるままに傍に寄ると、彼女は俺の手を、ひんやりとした、だがどこか力強い熱を宿した手で握った。
「お主の名前を呼んだとき、妾は確信した。お主はただの人間ではない。八百万の神々の『縁』を繋ぎ止める、特別な器じゃな」
「……器。所長もそんなことを言ってましたけど、イマイチ実感がわきません」
「お主が妾を認め、世話し、名を呼ぶ。それだけで、形を失いかけた妾はこの世界に留まることができる。本来、神とは畏怖され、遠くから拝まれるべき存在じゃが……まあ、お主のような無礼極まりない管理人に養われるのも、悪くはないかもしれぬな」
彼女の赤髪が、沈みゆく夕日のような柔らかな光を放ち、俺を包み込む。
その温かさに、俺は自然と肩の力が抜けてしまった。
不採用通知を積み上げ、誰からも必要とされていないと思っていた自分が、神様の命を繋いでいる。
「……とりあえず、食後はちゃんと歯を磨いてくださいね。それから、約束通りこの部屋のゴミを袋にまとめてください。俺が捨ててきますから」
「嫌じゃ。妾はこれから、下界の民と『おんらいん・げーむ』で雌雄を決する約束があるのじゃ」
「……神様。調子に乗ると、明日の朝飯抜きにしますよ? 卵焼き、もう食べたくないんですか?」
「なっ……!? お主、神に向かって何という非道な脅しを! 卑怯者め、食べ物の恨みは恐ろしいのじゃぞ!」
頬を膨らませて必死に抗議する彼女を見て、俺は小さく笑った。
三十社の面接官には「気味が悪い」と一蹴された俺の体質が、ここでは誰かの笑顔を作るために役に立っている。
それが正しいことなのかは分からない。だが、少なくともこの瞬間、俺は初めて、長い放浪の末に「自分の居場所」を見つけたような気がした。
しかし、平和な時間は長くは続かない。
階下から、何かが激しく衝突し、木材が軋むような轟音が響いてきた。続いて聞こえてきたのは、九十九所長のひっくり返った声だ。
「巡くーん! 二〇二号室の新入居者が来ちゃったんだけど、ちょっと暴れちゃってて手が足りない! 大至急、助けてー!」
俺の管理人としての初日は、まだ暮れることさえ許されないようだった。




