第29話:九十九の正体と、管理人の選択
八百万荘の庭にある古い百日紅が、燃えるような紅い花を落としていた。
管理人の俺、神代巡は、一〇一号室の管理人室で、重厚な革張りのアタッシュケースを広げる九十九所長と向き合っていた。
昨夜の「器」の崩壊と再生を経て、俺の感覚は驚くほど研ぎ澄まされていた。目の前に座る、アロハシャツを着た中年男から放たれる気配が、これまでのような「胡散臭い不動産屋」のものではない。それは、数千年の時を監視し続けてきた、冷徹な観測者のそれだった。
「巡くん。まずは、身体が戻って良かった。君を失うのは、このアパートにとっても、僕にとっても最大の損失だからね」
九十九はサングラスを外し、その素顔を晒した。その瞳には、瞳孔が二つずつ存在している。人間ではない。古の時代から「神と人」の境界を守り続けてきた、名もなき仲裁者の一族。それが九十九の正体だった。
「所長。……いや、九十九さん。本題を話してください。アパートの契約更新、ですよね」
俺が問いかけると、九十九はアタッシュケースから一通の書類を取り出した。そこには、俺がこれまでに見たこともないような、公的な公印と、血のように赤い霊的な刻印が並んでいる。
「この書類に判を捺せば、巡くん、君は今日この瞬間から『普通の人間』に戻れる。君の器の体質は僕らが完全に封印し、八百万荘での記憶も、彼女たちのことも、すべて『なかったこと』として書き換える。その代わり、君には都心の一流企業への就職先と、一生遊んで暮らせるだけの退職金を用意しよう」
九十九の声は、甘い誘惑というよりは、冷徹な宣告のように響いた。
「君は知っての通り、もう限界だ。今回は彼女たちの力で繋ぎ止めたが、次はない。君がこのまま彼女たちを抱え込み続ければ、君の魂はいずれ摩耗し、塵となって消える。……彼女たちは神だ。君がいなくなっても、また別の依代を見つけるだろう。だが、君の人生は一つしかないんだよ」
俺は、差し出された万年筆をじっと見つめた。
普通の人生。霊に怯えず、神々のわがままに振り回されず、将来の不安に怯えることもない、約束された安泰。
それは、就職活動に全落ちし、路頭に迷っていたあの頃の俺が、喉から手が出るほど欲しがっていたものだった。
その時、廊下から激しい足音が響き、ドアが力任せに開け放たれた。
「ならぬ! させるか、そのようなこと!」
そこに立っていたのは、ヒノカを先頭にした五人の女神たちだった。
彼女たちの顔は一様に青ざめ、目には必死の、そして引き裂かれそうなほどの悲痛な色が浮かんでいた。
「九十九! お主、巡に何を吹き込んでいるのじゃ! 巡を連れ去るというなら、妾はこの地を灰にするまで焼き尽くしてやるぞ!」
「所長殿……。主殿の記憶を奪うという行為、それは私に対する死刑宣告と同義だ。……主殿の隣こそが、私の唯一の戦場。そこを奪う者は、神であろうと容赦はせん!」
シグルが抜刀せんばかりに身構え、ミナトが溢れ出す涙と共に部屋に霧を立ち込めさせる。
コトネは「金やない、そんなもん一銭の価値もないわ!」と叫び、スガワラは「論理的に、管理人さんのいない未来は……計算不能です」と唇を噛んでいた。
「……みんな。入ってこないでくださいと言ったでしょう」
俺は静かに立ち上がり、彼女たちの前に立った。
ヒノカが俺のシャツの裾を、今にも千切れそうなほど強く、震える手で掴んだ。
「……巡。……お主、行ってしまうのか? 妾を、あんな真っ暗な部屋に、また独りにするのか? ……嫌じゃ。お主のいない朝など、妾には二度とやって来ぬのじゃ……!」
ヒノカの悲鳴のような問いかけ。
俺は、彼女の赤く腫らした目を見つめ、それから九十九に向き直った。
俺は、書類を手に取り、それを迷いなく真っ二つに引き裂いた。
「……巡くん。後悔するよ。君は死ぬかもしれないんだ」
「後悔なら、もうしていますよ、所長。……あの日、あんたの誘いに乗って、彼女たちに出会ってしまった。……その瞬間に、俺の『普通の人生』なんて、もうどこにも無くなってたんです」
俺は、破り捨てた紙片を空中に放り投げた。
「彼女たちが俺を必要としているんじゃない。……俺が、彼女たちのいない世界で生きていけないんです。……俺の器が壊れるというなら、その破片の一枚一枚に、彼女たちの名前を刻んで生きていく。……それが、俺の選んだ『最高の人生』です」
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ヒノカが俺の胸に飛び込んできた。
続いてシグルが、ミナトが、全員が俺の体に縋り付き、声を上げて泣き始めた。
「馬鹿者! 大馬鹿者じゃ、巡は! ……でも、良かった。……お主がいなくなったら、妾は本当に、自分を燃やし尽くして消えるところじゃったぞ……」
「主殿……。……感謝する。……私の忠誠は、永遠に貴殿のものだ」
九十九は、引き裂かれた書類を見つめ、それから肩をすくめて、いつもの胡散臭い笑顔を戻した。
「……やれやれ。これだから人間は、計算が立たなくて困る。……わかったよ、契約更新だ。ただし、巡くん。これからの家賃の取り立ては、これまで以上に厳しくさせてもらうからね」
九十九はそう言い残して、アタッシュケースを抱えて去っていった。
静かになった管理人室。
俺は、泣きじゃくる五人の女神たちを両腕で抱きしめながら、窓の外に広がる夕焼けを眺めた。
俺の人生は、もう普通じゃない。
明日にはまた金欠に悩み、雨漏りに走り、彼女たちのわがままに翻弄される日々が続く。
けれど、そのすべてが、俺にとってはどんな宝石よりも輝かしい、愛おしい日常なのだ。
「……さあ、みんな。顔を洗ってください。……今日は、お祝いのご馳走を作りますから」
俺の言葉に、女神たちが泣き笑いの顔で一斉に応えた。
八百万荘の契約は、今、魂のレベルで更新された。
管理人の夜は、五人の女神たちとの揺るぎない「縁」を噛み締めながら、どこまでも温かく、更けていくのだった。




